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月光と月と三日月の剣

第一章 忙しい夜

5. 星影

 はっとしてアレスが振り向く。
「〈星影〉!」
 名を呼ぶまでもなく、高らかに蹄を鳴らし、真っ黒な馬が焚き火の前へ飛び込んできた。
 その尻を追って、獣の息遣いが迫る。
 暗闇で光る幾対もの目を見て、アレスはすぐに相手を悟った。
「狼か……」
 銀色の目を爛々と光らせた狼たちは、人間側の動きをうかがうかのように遠巻きに並んだ。そのまますこしずつ距離を詰めてくる。威嚇の唸り声がほうぼうから聞こえてくる。
 馬は怯えた様子で主人の背後に回った。ただ、もともとが豪胆なのかよく訓練されているのか、危険な肉食獣に追われても、パニックに陥ったりはしなかった。焚き火の炎も怖がらない。それどころか、主人と合流して安心したのだろう、アレスの背後から狼たちに向かって歯を剥き出し、いまにも飛びかからんばかりだ。
「十、十一、十二……かなりいるな」
「血の匂いを嗅ぎつけてきたようですね。野犬も混ざっています」
 淡々と報告しながら、ラスクが荷袋からなにかを取り出した。焚き火に足したところを見ると、細長い薪だ。火を強め、獣たちを牽制するつもりだろうか。
「お目当ては死人か」
 野盗が多いこの近辺は、必然的に人間の死体も増える。獣たちはそこから人間の屍肉の味を覚えたのだろう。
「だったら、生きてる俺たちのことはほっといて好きに食えばいいのにな」
「馬も好みのようですよ」
「なるほどな。こいつをお望みとは、ずいぶん贅沢な犬っころじゃないか。身のほどを知れよ」
 人語を知らぬ獣がその悪態に反応したとも思えないが、突如、あちこちで唸り声が大きくなった。光る目と人間たちの距離が、みるみるうちに縮まる。
「やれやれ、忙しい夜だ」
 と、つぶやいて鞘を払ったアレスの顔は、危機に強張るどころか、好戦的な笑みに歪んでいた。
「よし、あんたは火でも持って、星影といっしょにいろよ」
「いいえ。相手が人間でないなら、護衛は不要です」
「は?」
 意味を問おうと振り返ったアレスの横を、火も剣も持たずに、ラスクが通り過ぎる。
「おい!? 」
 引き止めようと伸ばした指先を、黒髪がすり抜けた。
「私の話を聞いていただけますか」
 ラスクが声をかけたのは、アレスではなく、狼だった。
 狼たちのなかに、一回り体躯の大きなものがいる。群れのボスだろう。その大狼に向かって、ラスクは大真面目な顔で話しかけたのだ。
「お腹を空かせているところを、申しわけありませんが……」
 しかも、無駄に礼儀正しい。
「おい、なにをしている!」
 引き寄せようとしたアレスの手を避けて、ラスクが一歩踏み出す。狼たちはざっと音をたてて、一歩後退する。
 唸り声はいつの間にかやんでいた。だが、銀色の視線はまだ、値踏みするようにあちこちからラスクを突き刺している。
「すこしだけ、待っていただけませんか。あなたがたを害する意志を、私たちは持っていません。私たちはすぐにここを立ち去ります。その後は、あなたがたのお好きにどうぞ。ただ、こちらの馬は見逃してください」
「馬鹿か、獣相手に、そんな話が通じる……」
 わけがない。というアレスの呆れ声は尻すぼみに消えていった。
 ラスクの言葉にうなずくように頭を低く下げ、獣たちが、一匹、また一匹と闇の中に去っていったのだ。最後に残った大狼も、しばらくラスクを見つめたのち身をひるがえし、悠々とした足取りで去っていく。
 焚き火の周りは再び静けさを取り戻した。
「……あんた、まさか、ご本人か?」
 いま見たものが信じられないという顔で、アレスが頭を振る。
 月女神は狩猟者の守護神といわれる一方で、狩人の獲物、つまり森に生きる動物たちの親神だともいわれている。森に生き、さらに狩りをする動物、狼たちと懇意でもおかしくはない。
 だが、神など実在するはずがない―――
「私はもちろん私ですよ」
 ラスクは真顔でうなずいた。それからすこしアレスの顔を見つめ、
「種明かしをしましょうか」
 つかつかと焚き火に歩み寄った。そして、薪を拾い上げる。まだ先端しか燃えていない、新しい薪だ。
「これです。彼らが嫌う匂いを焚いただけです」
 たしかに、ラスクが先ほどべたその薪は、焦げた金属を思わせる独特の匂いを放っている。なんという木か、あるいはどんな油を染み込ませたものかはわからないが、薬草に詳しい彼女ならではの知恵といったところか。
 狼が特定の匂いを嫌うというのは初耳だったが……。
「なるほどな」
 よくわからないままわかったようにうなずいたアレスの背後で、焦れたように馬が小さく鳴いた。
「ああ、星影。もう大丈夫だ」
 振り向いて手を伸ばすと、馬は甘える仕草で鼻先を擦りつけてきた。目を細め、すっかり安心しきった表情だ。
 それを見たラスクが、
「いい馬ですね。きらりです」賛辞だろうか、珍妙な言葉を口にした。
「…………? ……まさかとは思うが、きれい、と言いたいのか?」
「そうです、それです。きれいですね」
 またもや言い間違えたらしい。しかし、ラスクは恬として恥じる様子もない。
(……もしかして、これが日常茶飯事なのか?)
 意思の疎通に若干不安があるな、そんなことを思いながらも気を取り直し、アレスは愛馬の首を叩いて馬の紹介をはじめた。
「たしかにきれいだが、きれいなだけじゃないぞ、こいつのような馬は、なかなかいない。母親が改良軍馬だから体格もしっかりしているし、肝も据わっている。体力があってねばり強いから、こんなに荷物を積んでも疲れ知らずだ。もちろん、足も速い。頭もいい。俺が世話して育てたんだ。だから俺にしか懐かない。それから―――
 ラスクはアレスの馬自慢をちゃんと聞いているのかいないのか、ただじっと星影を見つめ続けていた。星影も耳をぴんと立て、注意深く少女を見つめ返している。長い睫毛が微風に揺れている。
 ラスクやアレスが褒めるように、星影はとても美しい牝馬だった。
 体つきは野生の馬よりも一回り大きく、堂々としている。一方で腹は引き締まり、四肢はいかにも俊敏そうにすらりと伸びている。その体躯を覆うのは、豊かに波打つたてがみと長い尾、そして、絹のごとく青光りする毛並み。夜陰に紛れたら見つけられないほど真っ黒な青毛馬だが、額には握り拳大の白い斑が一つ、闇夜に浮かぶ星のように輝いていた。これが〈星影〉という名の由来だ。
 ふと、ラスクが星影に向かって手を伸ばした。
 星影は応えるように首を伸ばし、その小さな手のひらに鼻先を擦りつけた。信頼と甘えの仕草だった。
 アレスは顔には出さずに驚いた。
(いつもなら、俺が他人と話していると嫉妬するぐらいなんだがな……)
 見た目に反して気性の荒い星影が、威嚇もせず嫉妬もせず、初対面の人間にここまで馴れたのは初めてだ。これはいったいどういう絡繰りか。狼を追い払ったときのように、なにかタネがあるのか。
 問うように少女の横顔を見遣ったアレスは、思わず目を瞬かせることになった。
 赤い焚き火がもたらす錯覚だろうか。石膏の仮面じみた白い頬に、ほの朱い生気がきざして見える。
 闇そのものだった瞳に、心なしか、やさしい光が灯っている。
「星影」
 舌の動きをたしかめるように、少女がゆっくりと馬の名を呼ぶ。その声が、これまでの淡々とした口調からは考えられないほど甘い響きを含んで聞こえたのは、気のせいか……。
 星影が低く鳴いた。少女の呼びかけに応じるように、やわらかな声で。
 いま、一人と一頭の間に、奇妙に甘やかな空気が流れていた。
 置いてきぼりにされたアレスは、こめかみをかるく押さえて呆れを示すよりほかにすることがなかった。正体不明の少女を警戒している自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。
「……まあ、その様子なら、あんたはすんなり乗せてもらえそうだな」
 アレス以外の人間が乗ると振り落としにかかる星影だが、この少女なら問題ないだろう。
「それで、あんた、馬に乗ったことは?」
「ありません」
「そうか」
 うなずくが早いか、アレスはラスクの体に腕を回した。そのまま、ひょいと肩の上に担ぎ上げる。
「……軽い」
 アレスはぽつりとそんなつぶやきを漏らしたが、いきなり抱き上げられたラスクは、狼狽の声も抵抗の声も漏らさなかった。年ごろの娘にふさわしい恥じらいの態度さえ見せない。アレスに持ち上げられるままに、星影の上でちょこんと横座りになる。馬の鞍の高さを怖がったりもしていない。
 人形のようにおとなしい少女を、アレスは拍子抜けした顔で見上げたが、
「落ちないように、そっちの手でたてがみを掴んでおけよ」
 それだけ言って背を向けた。
 焚き火に歩み寄り、ラスクの荷袋や毛布を拾い上げる。剣も拾った。
 そして、再び驚いた。
「……軽い」
 十五の娘がかるがる振るっている様子から推測はできたが、実際に持ってみると、この剣の異常さがよくわかる。鞘も柄も、明らかに鉄ではない。白金色に輝いているが、白金でもない。見たこともないような、異質なものでできている。
「軽すぎる。雪をまとった小枝を持ってるみたいだ」
 好奇心に駆られ、鞘からすこしだけ引き抜いてみた。
 焚き火の明かりがすり抜け、顔の前でぼうっと光が灯る。透明にも見える、磨き抜かれた水晶の刃。いや、この軽さは水晶ではない。ガラスでもない。“得体の知れないなにか”だ。
(持ち主そっくりだな……)
「アレスさん」
 固い声が背中にぶつかる。アレスは剣を鞘に収めて振り向いた。
「剣を、返していただけませんか」
 さっきの甘い雰囲気や、人形めいたおとなしさはどこへやら。ラスクの眼差しがややきつくなっていた。
「悪い。べつにどうこうしようってつもりじゃなかった。ただ、こんな剣は初めて見るから、興味深くてね。これはいったいなにでできてるんだ?」
「知りません」
 ラスクの答えはそっけなかった。
 だが、さすがに冷たいと感じたのだろうか、アレスが肩をすくめたとき、ぽつりとつぶやいた。
「ずっと、私のそばにあったものです。ザントゥールは、その剣を〈月光ラシェル〉と呼んでいました」
 聞き慣れない響きに、アレスは首を傾げる。
老いた杖ザントゥール? それは、人の名か?」
「はい。巣立ちの親の名です」
「巣立ちの?」聞き返してから、はたと気づく。「……もしかして、“育ての親”のことか?」
「そうです、それです。育ての親です」
「あんた、よく天然ボケっていわれるだろ。いや、それはいいとして、育ての、ってことは……」
 言いかけて、すぐに口を噤んだ。その先は、踏み入ってはいけない領域だ。
「……〈月光ラシェル〉か、なるほどな。月女神ラスクとおそろいってわけか」
 取り繕うように笑ってみせたが、ラスクは今度はうなずくこともしなかった。
 アレスは肩をすくめ、剣を持ち主の手に返そうとした。しかし、ラスクの左手は星影のたてがみを掴んでいて、右手は剣を持つどころではないことに気づいたので、荷物といっしょに、剣を鞍にくくりつけることにした。
 荷ごしらえの様子を、馬上からラスクがじっと凝視している。その黒い瞳の中に、不安な心持ちを覗いた気がした。そこで、アレスは言ってやった。
「この剣が使えなくたって、心配するな。しばらくは、俺があんたの剣になってやる」

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