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月光と月と三日月の剣

第二章 神か人か

2. 畏怖

「おまえさんの産着に〈ラスク〉という綴りを見つけたときは、さすがに言葉を失ったがね」
 ザントゥールは懐かしそうに目を細めながらそう語った。朝食を終えた団欒のひとときだった。この時間、養い子にさまざまなことを話して聞かせるのは、彼の楽しい日課の一つだった。
「今日であれからもう七年だね」
 隣の椅子にちょこんと腰かけて足をぶらぶらさせている少女を、感慨深く見つめる。彼女を月神殿に引き渡すの引き渡さないのでセディアと大喧嘩をしたのも、つい昨日のことのようで、もはや昔のことだ。
 ラスクを月神殿に引き渡さなかったのは正解だった、とつくづくザントゥールは思う。あるていど成長してから気づいたことだが、この娘の容姿は、あまりにもその名に似合いすぎている。黒い髪と黒い瞳なら、このあたりの娘にはよくある組み合わせだ、騒ぐほどのことでもない。だが、そこに凜として涼しげな目鼻立ちが加われば、話はべつだ。大人になれば、彼女はますます月女神そっくりの美人になるだろう。そんな娘が月神殿にいたらどうなるか……。間違いなく、彼女が思うがままの人生を歩むことはできなくなる。
 だから、この名付けが正しかったのか、ザントゥールはいまだに不安を覚えている。一方で、これで正しかったのだ、という気もする。この娘が本当の親に会うとしたら、名前はよい目印になるだろう。
 それから、あのふしぎな剣も。
 ザントゥールはこれまで数多くの剣、とりわけその刃を目にしてきた。だが、ラスクとともに拾った剣の素材は、その正体をいまもって掴みかねていた。鳥の羽根のように軽く、虎の爪よりも鋭い。いったいどんな異国からもたらされた金属なのか。そもそも金属なのだろうか。
 ラスクを拾った翌日、なにかめぼしい手がかりはないかと思い、ザントゥールは剣が置かれていた木の周辺を念入りに調べて回った。だが結局、人がいたという痕跡すら見つけられなかった。
――― しかし、できすぎた話じゃないかね」
 しばし思いに耽っていたザントゥールは、だれにともなくつぶやいた。
「月の光を連想させる剣に、月女神様の名を持つ赤ん坊。こんな時代に、神の娘が人の世に生まれ、ここにいると堂々と宣言して、それでどうしようというのかね」
 自らに問うように首をひねったザントゥールの真似をして、幼い娘も首をひねった。その無邪気な仕草に顔をほころばせた養父は、
「大丈夫、おまえさんはちゃんと人間の子供だよ」できるだけやさしい声音で言った。「きっと、子のいないわしらのために――― 」言いさしてはっと口を噤む。ちらりと妻の顔をうかがう。セディアはあまり関心がなさそうに食後の卓を拭いている。ザントゥールはほっとした表情で続けた。
「わしらのために、神様が贈り物をくださったのさ。だから、おまえさんはわしとセディアの子だよ」
 節くれ立った手を伸ばし、ラスクの頭を撫でてやる。
「はい!」
 ラスクは瞳を輝かせて返事をした。顔いっぱいに浮かべた笑みは、ザントゥールの目には太陽よりも眩しく映った。幼いラスクの表情は、その場にいるだれよりも溌剌として明るかった。
 もちろん、ザントゥールも明るい笑みをその灰色の目にたたえていたが、今年五十五を迎えたこともあり、さすがに老いの疲れが目尻の皺に溜まりはじめていた。夫より十五も若いセディアは、笑えば夏の花よりも明るい顔を見せるはずだったが、いまは頬を硬く強張らせたままだ。夏の葉のように鮮やかな緑の瞳も、硬質な光だけをはじき返している。
「私は、ザントゥールと、セディアの子」
 歌を口ずさむ調子で屈託なく宣言したラスクは、同意を求めるようにセディアへ振り向いた。
 黒と緑、二つの視線がまっすぐにぶつかる。
 緑の瞳が怯えたように大きく見ひらかれる。次いで、ふい、と逸れる。
 ラスクの顔が一瞬だけ凍りつく。小さな手が、養父の服をぎゅっと握りしめる。
「セディア」
 さすがに、ザントゥールは咎める声を出した。
 その袖をラスクがぐいと引っ張って、首を大きく横に振る。
 セディアを怒るな、と言っているのだ。
 唇をきゅっと引き結び、まっすぐにザントゥールを見上げるラスクの、黒い瞳。そこには、ついさっきまで無邪気な振る舞いを見せていた幼女には似つかわしくない感情が――― 深い諦めの感情が浮かんでいる。
「ラスク……」
 一年ほど前から、彼女はこうしてセディアを庇うようになった。
 彼女は、すでに知っているのだ。セディアが養女に対して、どんな感情を抱いているのかを。そして、そのことでセディアを恨むでもなく、嫌うでもない。ただ理解を示し、それゆえに、庇おうとしている。
 なんとやさしく、なんと聡明な娘であることか。
 そして、なんと不憫なことか。
 ラスクはまだわずか七歳の娘なのだ。母恋しいであろう年の娘が、セディアを母ではないと理解し、その愛を諦めることになろうとは。
 いや、完全に諦めたわけではないのだ。だから先ほどセディアに視線をぶつけたように、ときおり、その愛をうかがうようなことをする。そして、そのたびに彼女は裏切られ、傷ついている。
 その心の、なんと痛ましいことか……。
 こんなことを、一年も前から彼女は繰り返している。
(なにか、きっかけがあったのだろうな……)
 ザントゥールは知らないことだったが、たしかにきっかけはあった。一年前のある日、ラスクは深く知ることになったのだ。母として慕っている女性が己に向けているのは、けっして愛ではないことを。もっと強いべつの感情――― すなわち、畏怖であることを。

* * *

「やあ、セディアさん、お元気ですか!」
 大きな籠を抱え、ザントゥールの家の庭先から明るい声を張りあげたのは、まだ声変わりも迎えていない小柄な少年だった。
「乳屋のハンスです、ぎっくり腰の親父に代わって、今日はオレが来ました!」
 たまたまそのとき、セディアは井戸へ水を汲みに行って留守だった。井戸は家のすぐ裏にもあるが、ときどき離れの井戸の様子も確認しに行くのだ。
 ザントゥールはいつものように、猟犬の琥珀を連れて狩りに出かけていた。家に残っているのは、六歳のラスク一人だけだった。
「一人のときにだれかが来ても、けっして扉を開けてはいけません」
 と、ラスクはセディアから固く言いつけられていた。しかし、明るく響く声、それも子供の声に、好奇心は抑えられない。ラスクは年の近い友達、それも人間の友達が欲しかった。
 おそるおそる扉を開けたラスクが、隙間からちらりと顔を出すと、
「セディアさん? ――― おっ、もしかして、君が噂の女の子?」
 乳屋の跡取り息子は、そばかすの多い顔を輝かせた。
 セディアはラスクを人目に触れさせたがらなかったが、ザントゥールが買い物ついでに養女を村まで連れ出すことは、ごく稀ながらあった。そして、ふだんは人目を避けるように暮らしているよそ者の狩人が、巌のごとき相貌を崩しながら娘の可愛さを自慢するので、「森の狩人といっしょに暮らす、月女神の名を持つ少女」は、小さな村の中で瞬く間に噂となって広まっていた。いまでは、谷を二つ越えた先の村にまで知られているほどだ。
「へぇー、名前どおり、本当にそっくりなんだね」
 ハンスは噂の少女をもっとよく見ようとして、商品の籠を抱えたまま玄関の階段を駆けのぼった。ラスクは驚いて引っ込んだりはしなかったが、目をぱちぱちと瞬かせてハンスを見つめたのち、少女特有のはにかみで、さっとうつむいた。肩で切りそろえられた黒髪が、さらさらと揺れた。
 その様子があまりにも愛くるしかったので、ハンスは思わず手を伸ばして、少女の頭を撫でた。ラスクはくすぐったそうに笑った。ハンスはますます頬をゆるめた。妹ができたような心持ちになった。
「今年でいくつ? オレ、十! ジャゴットさんとこの農場にさ、君と同じぐらいの年の子が何人かいるからさ、今日オレの仕事が終わったら―――
 背後でなにか大きなものが落ちる音がした。
「えっ?」
 ハンスが振り向くと、庭にセディアが立っていた。その足元に桶が転がっている。地面には大きな水の染みができている。セディアの靴もびっしょりと濡れている。
「セディアさ―――
「手を離して!」
 声はほとんど悲鳴だった。その剣幕に驚いたハンスがラスクからぱっと離れると、矢のようなすばやさで飛んできたセディアが、ラスクを扉の奥に押し込めた。
「セディアさん?」
「月女神様の御子を、あなたのような若い男性に触れさせるわけにはいきません」
 後ろ手に扉を閉め、ハンスの前に立ちはだかったセディアは、険しい眼差しでそう宣言した。
 決然とした表情には、神殿を守る巫女のごとき崇高さすらあった。
「どうか、お帰りください。バターは、あとで自分が買いに行きますから」
「あ、はい、よろしくお願いします……」
 まだ幼い少年には、セディアがなぜ怒っているのかわからず、この不測の事態に対処する力もなかった。驚きのあまり落っことした籠と、散らばったチーズやバターの包みを拾い集め、ただ一礼して立ち去るよりほかになかった。

 セディアはラスクが人目に触れることを恐れたが、とりわけ、男性の目を嫌った。
 月女神は“子のない女性たち”の庇護者といわれている。なぜなら、けっして男性を寄せつけない処女神だからだ。その素肌に触れていい男性は、夫たる太陽神のみ。それも、何年かに一度の聖婚の日に限られている。さらには、「太陽神には性別がないから月女神が心を許すのだ」と説く神殿もある。
 各地の神殿に神像を納める職人たちは、月女神像を彫るときは必ず聖別された手袋をはめる。そして、完成品にはけっして触れない。
 それほどまでに清らかな存在なのだから、月女神様の御子も、清らかな体のまま天へお返ししなければいけない――― それがセディアの信条だった。
 もう若くないとはいえザントゥールも立派に男性だったが、彼はラスク自身に選ばれた人間だから聖別されている、とセディアは固く信じている。ザントゥールが幼子へお伽話を語るついでに同じ寝台でうっかり眠ってしまおうとも、気を揉んだりはしない。逆に、神に選ばれ、信頼を得ている夫のことを、誇りに思っている。
 だが、乳屋のハンスはセディアが危険と見なす男性そのものだ。ラスクよりすこし年上で、好奇心旺盛な若者。それも、神や聖霊への敬意を忘れつつある“現代の若者”なのだ。
 もっとも、村の年長者たちのなかでも、セディアほど信心深い者は稀だったが……。
 育ちのせいもあってもともと〈三光神〉へ深い敬意を抱いていたセディアだったが、ルクイエルに来てからは、その信仰心はさらに頑ななものになっていた。
 セディアとザントゥールの間には、子がいない。できなかったのだ。
 “子のいない女性”と“狩人”の夫婦。セディアが月女神を自分たちの守護神として崇めるに至ったのも、当然の成り行きだっただろう。ましてや、目の前にその女神に生き写しの娘があらわれたとなっては。

* * *

 音高く閉ざされた扉の前で、六歳のラスクは呆然として外のやりとりを聞いていた。
 セディアが自分を守ってくれているのはわかっていた。外の世界の“あぶないもの”“おそろしいもの”“けがれたもの”から、自分を守ってくれているのだ。
 でも、外にあるのは本当にそれだけだろうか? 乳屋の少年の屈託ない笑顔や、見知らぬ農場に降り注いでいるだろう暖かな陽射しや、同じ年ごろで遊びたい盛りの子供たち……それらは本当に“あぶなく”て“おそろしく”て“けがれて”いるのだろうか? この心が求め、想像するのと同じように、きらきらと光り輝く美しいものたちではないだろうか。
 暗い部屋の中で、聡明な少女は、いまはっきりと一つの事実を認めた。
 認めざるを得なかった。
(セディアが怖がってるのは“外”じゃなくて、私……。神の娘としての私なんだ……)
 神の娘。月の御子。セディアはラスクのことをそう呼ぶ。そうして、まるで本当に神であるかのように扱う。一方で、ザントゥールはラスクのことを人の子だという。そして、人の子として扱う。神なのか人なのか、そんなことはラスク自身にもわからないことだったが、どちらの大人がより暖かい感情をもたらしてくれるかは、もちろんわかる。だから、ラスクは自分のことを人だと信じている。
 そもそも、神と人、住んでいる場所が違うというだけで、なにほどの差があるのだろうか。ラスクにはそこがよくわからない。神は偉いらしいが、ルークの王様だって偉いとみんな言っているし、ザントゥールだって偉い。
(そして、私はぜんぜん偉くない。セディアの言いつけを破ってしまったもの……)
 唇を噛んだラスクの前で扉が開き、外光とともにセディアが入ってきた。
 少女は思わず手を伸ばした。
「いけません、ラスク様」
 セディアが慌てたように身を引いて、その手を避ける。
「あ……」
 白いスカートの裾は小さな指先をすり抜け、足早に厨房へと去っていく。
 言いつけを破って扉を開けたことを、叱られもしなかった。
 小さな娘にできたのは、なにも掴めなかった手をぎゅっと握りしめて、うつむくことだけだった。

* * *

 ぎゅっと握りしめた手が汗で滑ったのか、ぐらり、と体が傾いた。
 それとも、いつの間にか手を離していたのだろうか。
 風が耳元で渦巻く。星影が驚いていななく。ラスクはただ黙って落ちながら、それらの声を聞いている。
 凍てついた心に、恐怖は湧き上がらない。
 だが、胸郭の奥が鈍く痛んでいるのはなぜだろう。
(セディア、ごめんなさい、セディア、セディア……)
 暗く閉ざされゆく意識の中で、ただその名だけが繰り返されていた。

上巻の試し読みはここまでとなります。下巻のアクションシーンの試し読みに続きます。

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