月光と月と三日月の剣
第一章 忙しい夜
3. 負傷
死の時は近い。
血は止まることなく流れ出し、体温を奪っていく。
深々と貫かれた腹と背の痛みだけが、いっそう熱い。
息絶える瞬間まで、この苦痛から逃れることはできないのだろう……。
灼けつくような痛みのなか、幸か不幸か、彼の意識はまだ保たれていた。そのぎりぎりの意識にしがみつきながら、彼は一人の少女のことを思い浮かべていた。
月の光を思わせるふしぎな剣を手にした少女のことを。
その剣を手に戦う彼女の姿は、彼が信奉する女神にそっくりだった。
(おれたちのような稼業の者が、月女神様の手にかかるならば、それも因果というやつだろう……)
鮮血を浴びてかろやかに剣を振るう少女のイメージは、瀕死の野盗に、恍惚さえもたらした。
だが、と野盗はいまいましく思う。だが、もう一人の男には、怒りしか湧き上がらない。
正義の味方よろしくいきなり割り込んできた男は、酷薄な笑みを浮かべながら、部下たちの大半を、その無慈悲な刃の餌食にした。
抜けているところはあるが気のいいベイルも、寡黙だが剣の腕はたしかで頼りになるゼクトも、旧き友人であり腹心でもあったテッドも、自分を父と慕ってくれた最年少のログも……みな、あの男の手にかかって死んだ。
最後にこちらへ向き直ったときにあの男が浮かべたのは、嘲りの笑み。そして、力ない虫けらを哀れむ目だった。
その表情を思い起こした瞬間、冷えかけていた体中の血がかっと熱くなった。
かすんでいた視界に、光が戻る。
風の音、血と草の匂い、冷たい指先――― 手放していたはずのあらゆる感覚が、全身に戻ってくる。
そして次の瞬間、彼は目が眩むほどの強い怒りと屈辱に襲われた。
あいつが、仲間の懐を漁っている……!
ありったけの力を振り絞って身を起こすと同時に、彼の手は、腰の短剣を掴んでいた。
執念がそうさせたのかもしれない。腹の激痛はすっかり遠のいて彼の集中を妨げることなく、血を失った手は震えて照準を乱れさせることもなかった。
野盗が握った短剣は、正確に相手の後頭部に狙いを定めていた。
彼がそれを投げつけようと腕に力を込めたとき―――
「だめっ!」
間に飛び込んできたのは、女神だった。
驚いたような、泣きだしそうな黒い瞳と目が合った。
照準は乱れた。
(あぶないっ!)
だが、手を離れた短剣の行く先をたしかめることができないまま――― 女神の背後から飛んできたダガーにまっすぐ喉笛を貫かれ、彼はついに絶命した。
* * *
「よし」
振り向きざまにダガーを投げた男は、野盗が倒れたのをたしかめると、満足げにつぶやいた。
「もう大丈夫だ」
両腕を広げたままの少女に声をかける。
目の前に飛び込んできたときは意表を突かれたが、狙いは乱さずにすんだ。
「どうした? 驚いたのか?」
無反応の相手を訝しみ、男はもう一度声をかける。
と、少女の上体が揺れた。
がくりと、膝が落ちる。
力なく垂れた右腕を伝って、赤いものが滴っていた。
血だ。
野盗の投げた短剣は、少女の右腕をえぐっていた。
ゆっくりと前のめりに倒れていく野盗を、少女は虚ろに見ていた。
すべてが奇妙に間延びしていた。自分がいまなにをしたのか、まったくわからなかった。
息が詰まるほどの鋭い痛みだけが、右の上腕部に残っている。
その場所から熱いものが溢れ出し、生成りのブラウスを赤く染めていく。さらにそれは腕を伝って止めどなく流れ落ち、足元までも濡らしていく。
地に広がった染みの大きさに、体が寒気を覚える。
「大丈夫か!? 」
倒れ伏しそうになった体が、男の腕に引き上げられる。
「……私はいま、なにをしたんですか……?」
喘ぎとともに漏れた言葉に、男が眉をひそめる。
「なにって……。俺を庇って、怪我したんじゃないか!」
「かばった……」抑揚なくつぶやき、瞑目する。……庇った? 自分が? この人を?
なぜ、そんなことをしたのだろう?
ただ、風があの日と同じように騒いだだけなのに。
(あの日?)
痛みにもがく意識の奥で、うっすらとなにかを思い出しかける。さっき、祈りの仕草とともに込み上げてきたものを。
(――― !)
気づけば、男の腕を振りほどいていた。“あの日”から逃れたいがための、無意識の行動だった。結果として逃れることはできたが、力の入らぬ足がもつれ、地に再び膝をついてしまった。
男の口がなにか言いたげに開き、閉じた。
代わりのように、小さな溜め息が聞こえた。
「とにかく、そのままじゃ危険だ。止血してやるから、横になってろ。傷口を心の臓より上にするんだ」
男は懐からナイフを取り出し、野盗の服を引き裂いた。慣れた手つきであっという間に包帯を作り上げる。だが、いざ手当てをしようと振り向くと、少女の姿がない。
「――― ?」
少女はいつの間にか焚き火の向こう側にいた。自分の荷袋をごそごそと掻き回している。なにかを捜しているようだ。
右腕からはまだ止めどなく血が滴り落ちている。赤い雫は炎を反射し、光をきらきらと振りまきながら地に散っていく。
その光景に、男は目を細めた。無意識にか、小さく唾を呑み込む。すぐにはっと夢から醒めたような顔になり、さらに、苦虫を噛み潰したような表情をわずかに浮かべた。
だが、
「おい、腕を動かすな!」
やや大仰な焦りの声とともに少女に駆け寄った男には、先ほどの表情は欠片も残っていなかった。
少女がいきなりぐいと突き出してきたものを見て、怪訝な顔になる。
「ギーバの葉です」少女は簡潔に説明した。「揉んで傷に当てれば、止血と消毒になります。止血に関しては、焼け石に水でしょうが……」
そう言って少女が示した傷は、上腕部の脇に近いところにあった。出血が多いのは、脇の動脈が切れたからだろう。
男はすぐに、傷口を上にして少女を横たわらせた。言われたとおりに葉を揉みほぐす。ほどなくして、清々しい芳香があたりに漂った。
服を脱がすわけにもいかないので、切れた袖の間から薬草を当て、さらにその上から即席の包帯を当てる。止血のためにきつく包帯を巻くと、少女の口から喘ぎが漏れた。
「深いな……。指先の感覚はあるか? 動かせそうか?」
「動きます。大丈夫です」
少女はすぐに身を起こし、荷物からあやしげな小瓶を取り出して中身を呷った。かなりまずそうな匂いが男の鼻先までも漂ってくるのに、当の本人はまったく顔色を変えない。
「……それは?」
「内服用の止血剤です。ディーユの根を日に干して煎じたものです」
「あんた、薬師なのか?」
少女の荷袋を覗き見ると、似たような陶器の小瓶や、干された薬草の束、大小さまざまな木の実などがたくさん入っている。
「薬師というほどではありません。たまたま、人より多く薬草の知識があるだけです」
「ふーん。でも、それだけありゃ、商売ができるな」
男が感心してつぶやくと、少女はうなずいた。
「薬草を売ってお金にすることはよくあります」
「それを薬師っていうんだ。まあ、そっちのほうが野盗を襲うより効率がよさそうだな」
「野盗を襲うより、危険もすくないですよ。あなたも薬を売ってみませんか」
少女はずっと真顔なので、その勧誘が冗談なのか本気なのかわからない。
「……いや、気持ちはありがたいが、俺には向かなそうだ」男はとりあえず丁重に断った。
「そうですか」少女はさして意に介したふうもなく会話を続ける。「ところで、あなたは手持ちがすくないのですね?」
「ああ」
なんとなく相手のペースに乗せられている気になりながら、男はうなずく。
それを見て、少女もまた、真顔のまま深くうなずいた。
「では、私の下僕になりませんか?」
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