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月光と月と三日月の剣

第一章 忙しい夜

4. 契約

――― は?」
 男の顔から表情が抜け落ちた。
「すみません」少女はすぐに謝った。「言葉を間違えたようです。つねに傍らにいて、人を危険から守る役割の者を、なんというのでしたっけ」
「……………………………………………………………………………………………………………………護衛?」
「はい、それです。護衛。私の護衛になりませんか?」
 ――― 素か? 素なのか? 眉一つ動かさず訂正した少女に、男は混乱した。そこへ冷静な口調がたたみかける。
「以前に立ち寄った村で、このあたりは野盗が多いから気をつけるよう、忠告を受けました。これからも野盗に遭うかもしれません。しかし、私はこの腕では戦えません。だから、剣の腕に自信のあるあなたを、護衛として雇いたいのです。お金なら、それなりに持っていますから」
「……はぁ」
 理路整然と並べられる言葉を、男はただ呆然として聞くしかない。
 今日は夜風が騒がしいなあ、などということを頭の片隅でなんとなく思ってしまうのは、現実逃避だろうか。
「期限は、安全な場所に着くまで。もしくはこの腕が治るまで。代金は毎日支払います。一日につき、オース銀貨を一枚。相場には詳しくありませんが、妥当でしょうか?」
「……これから戦場をくぐり抜けるわけじゃなく、」こめかみを押さえながら、男はようやく己の調子を取り戻した。「あんたがどっかの国のお姫様や女王様というわけでもないなら、きっちり相場どおりだ。だが、あんた、目的地は?」
「ありません」
 少女はきっぱりと答えた。
「ない? その年で、そんな旅をしてるのか?」男は目を丸くする。「そういえば、あんた、一人旅なのか? 親は?」
「……親は、いません。一人です。行き先はあなたにお任せします」
「護衛の行き先に主がついていくなんて、そんなあべこべなことがあるか」
「不都合ですか?」
「そういうわけでもないが……」
 男の目がわずかに鋭さを増して少女を見る。
 年のわりには小柄で、見てくれはやや幼い。だが、あどけない、ということもない。まとう雰囲気は、すでに大人びている。適当に飾り立てれば、充分、役目を果たすだろう。
 不都合どころか、都合がいい。むしろ、よすぎる。なんの巡り合わせかそれとも罠かと思うほど、願ったり叶ったりの申し出だ。
 腹の底でめまぐるしく動くそんな計算を悟られないよう、男は腕を組んでためらう仕草をしてみせた。
「まさかとは思うが……だれかに追われているとか、賞金首なんてことはないよな?」
「あなたと違って、人の恨みを買いそうなことをした覚えはありません」
「……俺と違って?」
 なるほど、どこかすっとぼけているようでも、言うことは言う性格のようだ。
「まあ、わかった。俺はこれからミスト大公国に入る予定だが、あんたがそれでもいいってんなら、護衛を引き受けよう。ただ、あんたに怪我をさせて、さらに金をもらうってのは気が進まないな。野盗に止めを刺していなかった俺の責任ということで、タダでもかまわないが」
「あなたの責任ではありません。怪我をしたのは、私の勝手です」
 毅然として言う少女に、男は肩をすくめた。
「あんたがそれでいいなら、言うとおりにするさ。俺はいまからあんたの護衛で、あんたは俺の雇い主だ。俺の名は、アレス。あんたは?」
 ためらうような沈黙が降りた。不審に思った男――― アレスが眉をひそめたころ、ようやく、
「ラスク」
 少女がぽつりとつぶやいた。それが神への祈りではなく、彼女の名をあらわすものだと理解するのに、アレスは一拍以上の時間を要した。
月女神ラスク? ……あんたが?」
 驚きとともに浮かびかけた歪みの表情を、とっさに押し隠す。
「なるほど、月女神ラスクとはね。そりゃまたずいぶん、お似合いじゃないか」
 語調は皮肉だったが、皮肉のつもりではなかった。心からの言葉だ。
 〈天の国〉の闇に住まう月の女神は、漆黒の髪と闇色の瞳、そして、月光のように白い肌を持っている。目鼻立ちは涼しげで、つねに凜と面を上げている。……と断言できるのは、月女神を描いたどの絵もどの像も、判で押したようにそういう顔をしているからだ。そして、ほとんどの絵やほとんどの像が、片手に抜き身の剣や長槍を掲げ、足元には黒猫か黒豹を従え、いまにも戦場に駆けつけんばかりに足を踏み出す勇ましい女神を描いている。
 アレスの目の前にいる少女は、そんなだれもが思い浮かべる月女神のイメージに、たしかによく似ていた。背中まで垂れた長い黒髪に、血の気のない真っ白な肌。感情の揺らぎを微塵も見せない凜とした顔立ちに、漆黒の瞳。
 少女がいま着ているのは、粗末な生成りのブラウスや、土と血に汚れた茶色いスカートだったが、月女神のように純白の薄絹をまとって立てば、月神殿に飾られた石膏の像にも見えるだろう。……もうすこし成長したら、という条件つきだが。
「俺のように信仰心が薄い者でも月女神ラスクサマの下僕になれるとは、光栄なこった」
 今度の台詞にはしっかり皮肉が混ざっていたが、ラスクは不快そうな様子も見せず、ただうなずいた。
「似ている、といわれることは多いです。しかし、私は女神ではありません」
「まあ、神が〈天の国〉からわざわざ地上に降りてきたなんて話は、聞かないからな」
 アレスもかるく笑って同意した。神など、大昔のだれかが空想した物語の、話のつじつまを合わせるための登場人物にすぎない。実在するわけがないのだ。
 月女神の容姿、月女神の名前、月の光を思わせる奇妙な剣。あまりにも符号がそろいすぎていて、逆に手の込んだ冗談にしか見えない。きっとこの剣を持たせた親が酔狂か、よほどの月女神信者なのだ。期待を込めて娘につけた名前がぴったりはまった希有な例だろう。あるいは、本名はべつにあって偽名を名のっているだけかもしれない。だとしたら、そうとうの自惚れ屋だが――― どんな理由でも、アレスには関係のないことだ。
 どうせほんの二日か三日の、短いつきあいになるはずだから……。
「よし、自己紹介もすんだことだし、いったん移動するぞ。こんなところじゃ、野宿をする気にはなれないからな」
 周りを見渡せば野盗の死体が累々と横たわっていて、安らぐどころの風景ではない。血の匂いも鼻を突く。あとからこの道を通る旅人は、さぞや迷惑するだろう。
「あんただって、さっさと水浴びして血を落としたいだろ? 俺の地図が正しけりゃ、もうすこし行ったところに川がある。歩くのが辛いなら、あんたは馬に」
 アレスが言ったまさしくその瞬間だった。
 闇の奥で当の馬がいなないた。危急を告げる、切羽詰まったいななきだった。

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