TOP » Library » 長編小説 » 月光と月と三日月の剣 » プロローグ

月光と月と三日月の剣

世の生まれは三つの光。すなわち、
太陽アルクは生と死の覇者、運命の紡ぎ手。その光は命を宿らせ、
ラスクは光と闇の覇者、勝利の招き手。その光は命を猛らせ、
レイクは愛と美の覇者、豊穣の護り手。その光は命を満たす。
光伴いし三身、天を開きて、その慈悲をあまねく地に下せり。
聖霊、人、獣、みな三神の守護のもとに栄えるものなり。

――― クエルアル太陽神殿所蔵『創神記 序』より

プロローグ

1. 青年

 黄昏が迫っていた。
(死ぬかもしれないな……)
 かざした指の隙間からちらりと夕日を盗み見たとき、ふと、そんな思いが彼の喉元に込み上げた。
(今度の任務ばかりは、さすがに……)
 憂いの重みに瞼が落ちる。だが、そんな瞑目もほんのつかの間のこと、鳶色の瞳はすぐに鋭利な光を取り戻し、稜線へと落ちゆく太陽をひと睨みした。
 その夕日に向かって、彼を乗せた青毛の馬はかろやかに歩み続けていた。
 彼らの行く手に伸びるは、土を固めただけの簡素な街道。左右は萌黄色の草で埋め尽くされている。見渡せど見渡せど道と草地しかない、うら寂しい田舎の風景だ。
 あたりの草をざわざわと騒がせて、初春の風が道を横切っていく。馬のたてがみを揺らし、馬上の青年の髪を舞わせ、バンダナの端を宙に躍らせる。
 栗色の髪の下に巻かれたバンダナは、目に鮮やかな緋色。彼が着ている外套とそろいの色だ。緋色のバンダナと緋色の外套でただでさえ目立つ格好の男だが、夕光に縁取られたその姿はなおさら赤く、遠目に見る者があれば、血まみれとも見まがうだろう。しかも、真っ黒な馬に乗っているのだから、〈冥府の使いハーディーヤーン〉をも連想させるに違いない。太陽神アルクの定めし寿命を半ばで断ち切る冷徹な死神は、夜の闇よりも暗い馬に乗ってやって来るという。
 もちろん、馬上の男は冥府の使いハーディーヤーンとして描かれるような骸骨姿ではない。ましてや死人でもない。十八の成人を迎えたばかりの、凜々しくて健康的な若者だ。ほどよい肉付きの長躯からは、年相応のみずみずしい生気が溢れ出している。彼が胸の裡に抱く恐れとは裏腹に、死はまだとうぶん彼のもとを訪れそうにない。
 そんな頼もしい体の上に乗った顔は、精悍というよりは繊細で、やや甘い。されど双眸は鋭く、なにもかもを貫き殺しそうな光を宿している。
 その鳶色の目が、苛立たしげに細められる。
(なにをいきなり弱気になっている? これだからフレアに心配されてしまうんだ)
「必ず帰る」
 彼は妹にそう言い置いて王都を出てきた。十日前のことだ。二つ年下の妹は、美しい亜麻色の髪を揺らしてものわかりよくうなずいた。だが、彼女の聡い耳は、兄の強い口調に隠されたかすかな恐れを、聞きわけていたに違いない。やわらかな桃色の唇はなにも言わなかったが、憂いに潤んだ胡桃色の瞳は、幾億の言葉よりも強く彼を引き止めていた……。
「はっ!」
 彼は唐突に馬を駆けさせた。
 なにかを振り切るように、土埃を蹴立てて街道をひた走る。
(俺が失敗すれば、フレアは殺される。あるいは自らの手で死を選ぶだろう)
 走っても走っても、焦燥はじりじりと胸に追い着いてくる。
(だが、そんなことはさせない。俺は必ず生きて帰る。必ずあいつを殺して、フレアのところに帰ってやる!)
 しなやかな馬の背に揺さぶられ、腰の長剣が跳ねる。体にかかるその重みをたしかめるために、彼はさらに馬の足を速める。
 長年使い、手にも腰にも、もうすっかり馴染んだ剣だった。鞘は安物で、艶のない黒革。柄の細工も控えめで、三日月を象った鍔は、ありふれた意匠の一つ。幅広に造られた刀身以外は、これといって目を引くもののない地味な剣だ。それでも、すらりと抜き放たれたその刃を目にした者は、眼識あらば抗いがたく惹きつけられるだろう。知識ある者は、剣の名を言い当てるかもしれない。そして、もしも市場に出回ったなら、地方の城を領地ごと買って釣りが来るほどの値がつくはずだ。
 しかし、当の持ち主はそんな金銭の価値には興味がなかった。彼がこの剣を重んじて肌身離さず身につけているのは、生と死を分かち合ってきた頼もしき戦友という、ただそれだけの理由だ。
 いや、理由ならば、もう一つあった。
 彼を束縛する鎖の象徴であり、憎しみを掻きたてる存在として。
 この剣を帯びている限り、彼は否応なしに戦う理由を思い出す。
 それゆえに、この剣を手に戦い続ける限り、負ける気はしない
―――
(この剣が死神のために造られたというのなら、俺は死神だ)
 身を切る風の冷たさを感じながら、彼は心に強く思う。
(たとえ太陽神が勝手に人の運命を定めていようとも、俺がすべてこの剣で断ち切ってやる。ふん、なにが命の源だ、生と死の覇者だ。ただ天で偉そうに照りつけてるだけじゃないか。人の死を救ったことなど、一度もないくせに!)
 八つ当たりぎみに、地平の光をもう一度めつける。
 偉大なる天空の太陽アルクはなにも言わず、突き刺すような――― あるいは祈るようなその視線を淡い朱色の中に溶かし込んで、彼方へと燃え落ちていった。

2. 少女

 黄昏が深まろうとしていた。
(なぜ、まだ生きてるのだろう)
 太陽は空に朱を広げながら稜線の彼方へ燃え落ち、その向かいの東の空からは、膨らみかけの白い月がようやく昇りはじめていた。その月をなにげなく横目に収めたときだ、
(この体は、なぜまだ動いているのだろう)
 彼女の心に、ふと、そんな思いが宿った。
(ザントゥールがいないのに、どうして……)
 その先の思考を拒むかのように、彼女は月から視線を剥がした。足を止めていたのは、ほんのつかの間。細い四肢は再び動きだし、これまでと同じように、ただ先へ先へと身体を進ませる。
 その足元に、道は、なかった。彼女の足は、膝まで萌黄色の中に埋まっていた。彼女の周りでは、萌黄色の草が騒がしく揺れているばかりだった。彼女のあとにも先にも、道はなかった。
 その道なき草原を、彼女は迷うそぶりも見せず、ただただまっすぐに歩いているのだった。長い棒のようなもので、せっせと草を左右に払い分けながら。
 きらきらと光をはじくその棒をよく見れば、鞘つきの長剣であることがわかる。そして、その光景に首を傾げることになるだろう。こんな細腕の持ち主に、はたして鉄の長剣が扱えるのかと。
 まず、みすぼらしい身なりの彼女には、値段からして不釣り合いだ。いかにも高価そうな白金色をした鞘は、黄昏に照り映えればなおさら、やわらかに溶けた黄金と見まがうほど美しい。あるいは、手元にまっすぐ射し込んだ夕光そのものだ。刀身は細く、飾り気のない簡素な十字型をしている。全体的に華奢で、うかつに扱えば折れてしまいそうな危うさは、持ち主の少女にどことなく似ている。
 だが、いくら華奢で折れそうな造りでも、女、ましてや十五の子供が持つには、鉄の剣は重たいはずだ。それなのに、彼女は右腕だけでかるがるとその剣を振っていた。疲れた様子も、息を切らせる様子もない。いっこうに速度を落とすことなく、草の海をひたすら前へ前へと進み続ける。
 その姿はさながら、止まることを忘れたぜんまい人形のようだった。
 人形ならば、もうすこし愛嬌があってもいいだろう。しかし、彼女の唇は微笑みを知らぬかのように固くぎゅっと引き結ばれたままだった。切れ長の黒い目も、光を知らぬ底なし沼のように暗い闇だけを覗かせている。血の気のない顔は強張り、石膏の仮面を思わせる。少女らしいあどけなさは、片鱗もなかった。真っ黒な髪は背中にずしりと垂れ、まるで淀んだ闇を背負っているかのよう。
 初春の冷たい風が、その髪を重たげに揺する。同時に、夜の寒さが彼女の首筋を通り抜けていく。
(今夜も、焚き火が必要……)
 背負い袋の中の燃料は、もう残りすくない。食糧も同じく。そろそろ人里を見つけなければ、明後日には薪も食糧も尽きるだろう――― 彼女はただ淡々と、そう見積もった。焦りや不安はなかった。それを感じる心は、とうに失われているのだ。
 それからどれほど歩いたことか、ふいに草が途切れ、サンダルの底が茶色い土を踏んだ。
(道……?)
 右から左へまっすぐに、土を固めた道が走っていた。ところどころが草に浸食されていて、手入れが行き届いているとは思えない。だが、太い道だ。両端には、馬車の轍が浅く溝を掘っている。
 馬車が通る道の先には、必ず街がある。つまり、
(人里がある……)
 かすかな安堵が瞳に浮かんだのは、ほんの一瞬のこと。
 感情の欠片もない平坦な顔で、彼女はゆっくりと周囲を見回した。
 薄闇に染まった視界が映すのは、草と土の寂寥とした風景ばかり。人家も人影も見えない。
(ならば、どちらへ行っても同じこと……)
 そう思いながらも、彼女の足は当然のように、東へと一歩を踏み出していた。
 すなわち、月が昇り来る方角へ。
 そして、視界の真正面に月を捕らえたとたん、彼女は立ちすくむように足を止めた。
(なぜ、まだ生きてるの―――
 月から逃れる勢いで見上げた天頂は、すでに紺青の深みを増していた。星々が光を灯しはじめている。美しき夢をもたらす星神レイク、そして安寧の眠りを与える月女神ラスクの夜が、もうそこまで来ている。
(ザントゥール……)
 女神たちがこぞって飾り立てた夜空でさえも、闇色の瞳に光を届けることはできなかったようだ。少女は昏く茫洋とした瞳を天に向けたまま、ふいに、膝を崩した。
 道にぺたりと座り込む。
 腕はのろのろと動いて、剣を胸元へと引き寄せる。そして、しっかりと抱き締める。まるで、それが彼女をこの世につなぎ止める唯一のよすがであり、身を地へ穿つ杭であるかのように。
 月を仰いだまま、彼女はもう微動だにしなかった。遠目から見る者があれば、その小さな影は、月に祈りを捧げる石像のようにも見えただろう。
 月がじりじりと昇っていく。

NEXT →


↑ 誤字脱字報告大歓迎!

inserted by FC2 system