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月光と月と三日月の剣

第二章 神か人か

1. 故郷

「トラン、ですか? いえ、知りません」
 当座の行き先を説明したとたん、馬上でラスクが首を傾げたので、アレスは頭を抱えたくなる腕を押さえながら、やや投げやりに説明した。
「こっちのジュリオーシス王国とあっちのミスト大公国を結ぶ関所市だ。このあたりじゃ、多少は名の知られた都市なんだがな。最近ミストの警備が厳しくなったせいで、ミスト入りするやつはトランの関所で旅券を見せなきゃいけない。……あんた、旅券は持ってるか?」
「リョケン。なんでしょうか、それは」
「……だと思ったよ」
 アレスはしみじみとつぶやいた。
 彼に牽かれた星影は、夜の街道をゆっくりと進み続けていた。道は草地を抜け、木々のまばらな林に入っている。道沿いの木立からはちらちらと星が見え隠れし、そのなかでもひときわ大きく輝く〈星神の瞳キト・レイク〉の位置が、夜明けの近さを告げている。月はさっき稜線に沈んだばかりだ。
「トランは、安全な街ですか?」
「どうかな。ご近所に大きな野盗団が住み着いてるって噂だ。そもそも辺境の街ってのは、荒っぽいはみ出し者ばかりうろうろしてるもんだ。あんたは俺といっしょにミストに入ったほうが安全だろう。あっちはいまなら警備がしっかりしているからな」
「リョケンとやらがありません」
「そいつは俺に任せてくれれば心配ない。あんた、出身はどこだ? この近くか?」
 虚を突かれたような沈黙があった。
「ああ、べつに言わなくていい。そのへんの都市を適当にでっちあげる。……そうだな、月の都アンフォラスとか、お似合いじゃないか?」
「ルクイエルです」
 今度ははっきりとした答えが返ってきた。
「ルクイエル? ……あの聖連峰か。ということはあんた、ルーク王国の人か」
 アレスはわずかに驚いた。
 ラスクの喋りかたはジュリオーシスの都のものに近く、田舎の訛りはほとんどない。しかし、いわれてみれば、ときどき高山ふうの発音が混ざっていることに気づく。
「なるほどな……。しかし、よくジュリオーシスに入れたな。国境警備隊に捕まらなかったのか?」
「コッキョウなんとかかどうかはわかりませんが、私を捕まえようとする人たちは、ときどきいました」
「それでいまあんたがここにいるってことは、しっかり逃げてきたってわけか。なかなかやるじゃないか」
 アレスは馬上のラスクを振り仰ぎ、にやりと笑った。
「ところで、そんな追われるような真似までして、なぜわざわざジュリオーシスに?」
「こちらへ、という目的はとくにありませんでした。いまもありません。ただ……」
 ラスクの顔がぼんやりと持ち上がり、北を見る。その先の闇にうっすら浮かび上がっているのは、平原を断つ、白い峰々。
「ただ?」
「あの場所にいるのが恐ろしかった、ただ、それだけです」

* * *

 ルクイエル連峰、と聞いてこの地方の人々が思い浮かべるのは、〈聖なる神々の家ルーク・イ・エルカー〉だ。
 “聖なる神々”といっても、この大陸で広く信仰されている〈三光神〉――― 太陽神、月女神、星神の、天体と光を象徴する三神のことではない。風や水、木といった、自然そのものの神々のことだ。ルクイエル連峰は、その頂に冠する白雪の優美さと、天へ屹立する峰の険しさを兼ねそなえ、古くから付近の人々の信仰を集めていた。自然神たる〈聖霊エルカー〉たちが集う聖域として。
 ラスクが育ったのは、その〈聖なる神々の家ルーク・イ・エルカー〉の端の山、比較的なだらかな中腹にへばりついている、小さな村だった。
 村の人口は百にも満たない。固有の名前すら持たず、ただ〈端っこの村〉と呼ばれるような、とても小さな村だった。その村はずれの森の中、木の香り豊かな丸太小屋で、幼いラスクは狩人のザントゥールとともに暮らしていた。
 ザントゥールと出会う前のラスクは、棄て子だった。森に置き去りにされていた赤ん坊を最初に見つけた人間が、ザントゥールだったのだ。それよりも最初に見つけたのは猟犬の〈琥珀〉で、さらに詳細にいえば、彼らが最初に見つけたのは赤ん坊ではなく、剣だった。
 秋空が気持ちよく晴れ、すこし風のある日だった。
 森の奥、村の人々が〈聖霊が歌う川エルカー・ル・アンテ〉と呼ぶ小さな川へ、昼食の前に手を洗おうと下りていったザントゥールは、先に下りていった琥珀がキャンキャンと吠えたてるのを聞いた。
 その声で、周囲からいっせいに鳥が飛び立つ。
 やけに鳥の多い日だ、そう思いながらザントゥールは、犬に追われて飛び出してくるであろう獲物に備え、弓を引き絞った。
 それから一呼吸置いて、獲物などいないことを知った。
 視線を移した先で琥珀が落ち着きなく嗅ぎ回っていたのは、生きた兎でも鹿の死骸でもなく、一振りの剣だったからだ。
 それも、見慣れぬ型の剣だった。
 柄頭のない、非常に単純で直線的な形をしていた。刀身は折れそうなほどに細く、遠目には、ただの長い十字架にも見える。鞘は白金だろうか、磨かれて上品な色を放っているほかは、なんの彫り込みも見当たらない。柄も白金色で、これまたなんの細工もなくつるりとしている。そんな奇妙な剣が、だれかの忘れ物のような唐突さで、川辺の大木に立てかけられていた。
(村の者ではないな……)
 この村は、ルークの王都からは遠い。その代わり、ジュリオーシス王国との国境に近いが、平野の中央に位置するジュリス・オースの都からはずっと離れている。つまり、周囲には都と呼べるような街がない。そんなド田舎の平和な山村では、戦いのための剣をわざわざ手元に置いておくような者はいない。――― ザントゥールを除いては。
 そのザントゥールも、ここ二年は人を斬るための剣を手に取ったことはなく、せいぜい獲物を解体するための大型ナイフを手にするぐらいだが。
 まさか、追っ手か。
 とっさにザントゥールの頭をよぎったのは、そんな恐れだった。
 ……いや、いまさら追っ手がかかるはずはないのだ。ザントゥールはすぐに不安を打ち消した。ここまで来られるような追っ手なら、とうに自分を見つけ出しているはずだ。それに、こんな異国ふうの剣ではなく、自分がよく見慣れた型の剣を持っているはずだ。
 もっとも、彼らが必要とするのは剣ではなく、この自分を説得するための口だろうが……。
 ともあれこの剣の所有者は、よそ者で間違いないだろう。それも、遠い異国の。よそ者がこんな辺鄙な森に来た目的は不明だが、たまたまこの木の根元で休んださいに置き忘れたのだろう。しかし、それならば近くに焚き火の跡でもありそうなものだ。周囲に人が立ち寄った痕跡が見当たらないのは、ふしぎなことだ。風が足跡を吹き散らかしたのか、それとも、うまく隠したのか……。
 猟犬の琥珀はすでに剣から離れていた。大木の根元の穴を覗き込んでいる。と思ったら、主人を振り返り、再びひと声吠えた。琥珀にしてはずいぶんおとなしくて、遠慮のある声だった。
 何者かの痕跡があるならそれを乱さないようにと、ザントゥールは慎重に落ち葉を踏みながら歩み寄り、行く手に新たなものを見つけた瞬間、はっとして身構えた。
 根元の穴に、獣の顔が見えたのだ。
 小ぶりな灰色の耳に見覚えがある。狩りの最中にときどき見かける、年老いた雌狼だ。
 獲物を奪い合う憎き狩人が近づいても、雌狼は逃げなかった。威嚇の唸り声さえ発しない。猟犬、次いで人間の顔をちらりと見て、つまらなそうに視線を逸らしただけだった。
 猟犬の琥珀も、なぜか攻撃に移ろうとしない。狼よりもずっと小柄な琥珀だが、臆したわけではないだろう。よくいえば勇敢、悪くいえば無謀なこの子犬は、どんな大きな獲物でもかまわず突っ込んでいって、狩人をはらはらさせることがしばしばある。そんな琥珀がいまは、奇妙におとなしい。ときどきわずかに尾を振りながら、「どうします?」という顔で主人を振り返っている。
 二匹の獣の態度を訝しみながら、ザントゥールは用心深く穴へと近づいた。弓は構えなかった。老狼は食用にはならないから、狩る理由がない。もしかすると怪我をしているのかもしれないから、それなら手当てをしてやろうと思ったのだ。もちろん念のため、手は腰のナイフに当てている。
 一歩、もう一歩……あと数歩で狼に手が届く距離まで近づいて穴を見下ろした彼は、ようやく、狼がなにかを包み込んでうずくまっているのに気づいた。
 “なにか”の正体に、危うく大声をあげそうになった。
 人間だ。
 それも、子供。それも、生まれて間もない。
 狼がその温かな毛皮で包んでいるのは、人間の赤子だったのだ。
 肉食の獣に抱かれた赤子は、己が置かれている状況など知らぬげに、すやすやと安らかな顔で眠っている。
「おまえさんが守っているのかね」
 無駄だと知りつつ、ザントゥールはそっと狼に話しかけてみた。
 そうだけどなにか、といわんばかりに、狼が大きなあくびをした。
「親はどこに行ったのかね」
 狼は煩わしそうに尻尾をぱたりと動かした。親のことなど知らない、とでも言いたげだ。
「……その赤子は人間の子だ。わしに任せてくれないかね?」
 問いかけるような金色の双眸が、じっとザントゥールを見つめ返す。
「人間は、人間の手で育てるべきだ。おまえさんの役目は、ここで終わりだよ」
 はたして言葉が通じたのだろうか。雌狼はおもむろに四肢を起こした。しばし赤子の寝顔を見つめると、その頬を一舐めする。やがて穴から出てきて大木の前を横切り、信じられないものを見ているという表情の狩人の前で、さらに信じられない行いをしてみせた。
 木に立てかけられていた剣を前脚で器用にぱたりと倒し、ひょいと咥え上げ、ザントゥールの足元にそっと置いたのだ。
「……この剣は、この子のものだというのかね?」
 狼は尾をかるく振っただけだった。肯定の動きにもとれた。狩人を一度だけちらりと見上げると、これで用はすんだとばかりに身をひるがえし、かるい足取りで木立の奥へ消えていく。
 その後ろ姿を見送り、
「言葉が通じるなら、今度、狩りの協力でも申し込んでみようかね」
 動揺を軽口でごまかした狩人は、足元の剣に視線を落とした。
 無垢な赤子に、人殺しの道具。これほどちぐはぐな取り合わせもそうそうあるまい。
 あの雌狼はこの剣と赤子の関連について、いったいなにを知っていたのだろうか。
 まさか、狼が攫ってきたわけでもあるまいが……。
 剣に惹きつけられるものを感じながらも、ザントゥールは赤子へと視線を移した。
 暖かい毛皮を失ったにもかかわらず、赤子は泣き声もあげずに、まだ暢気に眠っていた。その横には琥珀が、いつのまにやら、かつてない行儀のよさでちょこんと座っていた。小さな命を見守る子犬の目は、母犬のようにやさしかった。
 そういえば琥珀も雌だったな、そんなことを思い出しながらザントゥールは腕を伸ばし、穴の中からそっと赤子を抱え上げた。
 思っていたよりも軽かった。そして、想像していたよりもずっと温かい。
 なにか夢でも見ているのだろうか、産着から突き出た小さな手が、ものを掴みたそうにときおりちょこちょこ動くのが、微笑ましい。
 髪はすでに黒々と生えそろい、つややかな光の輪を見せている。ほんのり赤みが差した頬は、つっつきたくなるほどふっくらしている。
 ひもじい思いをしている様子はなさそうだ。産まれてからまだ数日ちょっとしか経っておらず、親と離れたのも昨日今日のうちだろう。ザントゥールはそう見当をつけた。
 ならば、親はまだ近くにいるかもしれない―――
 そう思ったとき、風が葉を散らしてざっと強く吹いた。
 はじかれたように、赤子が目を開いた。
 黒珊瑚をはめ込んだようなつぶらな瞳が、まじろぎもせずに、ザントゥールを見ていた。
 初老の狩人は、湧き上がる感情のままに微笑んだ。その愛らしい顔をよくよく見ようと赤子を覗き込む。
「どうかね、目はもう見えているのかね?」
 赤子は応えなかった。その代わり、火がついたように泣きだしたので、ザントゥールは昼食を諦め、慌てて家に駆け戻らねばならなかった。
 とっさに拾い上げた剣の軽さに、驚く暇はなかった。

 家に帰って、赤子を拾ったときの子細を妻のセディアに話すと、セディアは「きっと山の聖霊様の御子だから、山に返すべきです」と強く主張した。しかし、ザントゥールはこれを聞き入れなかった。
 人間の親が捜しに来るかもしれないし、わしに任せてくれ、と雌狼と約束した手前、それを裏切るわけにはいかない、と反論した。
「だけど、私たちでこの御子を育てて、もし、御子になにかがあって、聖霊様のお怒りに触れたらどうするのですか」
 と、セディアが泣きそうな顔で訴えるので、
「子を育てた人を罰するなんて、聖霊様がそんな心ないことをなさると思うかね? それに、人の形で生まれたのなら、これは人の子だよ。山につき返すほうが、お怒りに触れるんじゃないかね?」
 そう言い返し、セディアが黙り込んだので、ザントゥールは止めとばかりに続けた。
「そもそも、山の聖霊様なら、山の眷属たちを狩り荒らすような狩人には、御子を触れさせもしないだろうさ。狩人の守護神、月女神ラスク様ならともかくね」

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