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ゆきくん

 夜独特のしんとした大気を感じながら、私は駅のホームに立っていた。懐かしい街を離れ、これからどこか遠くへ行かなければならなかった。友達も思い出も、みんなこの街に置いていかなければならなかった。それなのに、両手にはとても重たい荷物を抱えていた。
 前にもこんな奇妙な旅立ちがあった気がしたが、うまく思い出せない。もどかしい気持ちを足先の点字ブロックで踏み転がしていたら、唐突な雨のように電車が滑り込んできた。
 青い色の電車だった。まるで地球みたいな……といっても、本当は地球の色なんて知らない。そんな気がしただけだ。ちょうど目の前で開いたドアに吸われるように足を踏み入れると、アニメで見た銀河鉄道そっくりのボックス型シートが、古びた匂いと一緒に並んでいた。
 木の床を軋ませて誰もいない車内を歩き、適当な席に腰を落ち着けてふと前を見ると、そこにはいつのまにか少年が座っていた。彼は私に気づいたふうもなく、窓の外を熱心に見つめている。でも、外は真っ暗で、私の興味を引くようなものはない。私は少年を観察することにした。
 年は十二歳ぐらいだろうか。女の子にも見える男の子だった。大きな瞳の上に、長いまつげが几帳面にそろっている。やわらかく結ばれた唇には、なぜだかきれいに紅が塗られている。肌の色が白いから、紅の色はよく映える。本当に女の子みたいだ。けれど、彼の細いうなじや骨張った手首からは少年の気配がたちのぼっている。どんな格好をしていても、彼が少年であることに間違いはない。
 格好といえば、彼のカーディガンには目を引かれた。雪のあのさまざまな形の結晶を、大きくひきのばしてそのまま細い糸にしたかのようだ。女物らしく、いくぶん過剰な繊細さと几帳面さで編まれている。その下に着ている灰色のYシャツはさっくりとした男物で、カーディガンともども彼によく似合っている。でも、ちょっと大きすぎやしないだろうか。襟元や袖口がすかすかしていて、寒そうだ。
 なぜ、彼は大人の服を着せられているのだろう?
 少年はきりりとした横顔を保ったまま、ふいに瞬きを繰り返した。観察を開始してから初めて見る瞬きだった。重い夢から醒めたように、彼はゆっくりと首を回してこちらを見た。私たちの目は臆することなくかち合った。そして、どちらからともなくにっこりと笑みを交わした。彼の優しげな笑顔はたちまち私の気に入った。
「君もどこかへ行くの?」
 その声は優しい静寂に満ちていた。体の芯から静まりかえっていくような。
「遠いところへ行かなきゃいけないの」
 私は彼にあわせてできるだけ優しくこたえた。
「それはたいへんだね。僕は、ここから少しだけ南に行くんだよ」
 彼は窓に指を当て、進行方向へつい、、と滑らせた。なんてこまやかに動く指先だろう。彼と別れてしまう前に、もっと彼のことが知りたくなった。
「私は北村奈々子。あなたのお名前は?」
「僕はいろいろな名前で呼ばれているけど、本当のものなんて一つもないんだよ」
「えっ。名前がないということ?」
「うん」
 彼のようなきれいな子に名前がないのは、とてももったいない気がした。名前を呼べば、彼はきっとにっこり笑ってこたえてくれるだろうに。でも、“本当の名前”ってなんだろう。
「ゆきくん、っていう気がする」
「え?」
 彼は大きな目をさらに大きくして、私を見た。
「あなたの名前。ゆきくん、っていうのがとてもしっくりする」
「どうしてそう思ったの?」
「雪の精みたいだから」
「君は奈々子ちゃんという気がするよ」
 ゆきくんがあんまり真面目な顔で言うので、私は笑った。
「だって、私は奈々子だもの」
 しばらくの間、私たちは他愛ないお喋りを楽しんだ。ゆきくんが着ているカーディガンは、おばあちゃんのものだということを教えてもらった。そういえば、お洒落好きな私のおばあちゃんも似たようなカーディガンを着ていたっけ。形見だからとお父さんが大切にしまっていたのは、あのカーディガンだった気がする。そう思い出したら、ゆきくんのことがとても懐かしくなった。ゆきくんはおばあちゃんと同じ真っ白な匂いがする。
 窓の外はいつまでも経っても真っ暗だった。まるで深海を走っているみたいに。ときどき、思い出したように光が走る。記憶の底に沈む深海魚のような光が。
「よかった。君が名前をくれたから、僕は君に会いに行けるよ」
 唐突にゆきくんがそんなことを言った。
「どういうこと?」
 と聞こうとしたら、大きな音を立てて電車が止まった。会話は音に閉ざされてしまった。
「僕、もう降りなくちゃ」
 ゆきくんが無邪気に笑うので、私はとても悲しくなった。彼は車両の奥をつい、、と指して、囁くように言った。
「君はこれからずっと遠いところに行くんだね」
 その先はどこまでもどこまでも電車がつながっていて、終わりがないように見えた。青い電車はもう動かない。私はこの電車の中を、遠いところに向かって一人で歩いていかなければならない。
「じゃ、またね、奈々子ちゃん」
 振り返ってゆきくんを見たら、彼はもうそこにはいなかった。座席の上に一つ、きらきらと輝く雪の結晶が残っていて、すぐに溶けて消えてしまった。私が膝に抱えていた重い荷物も、いつのまにか消えていた。ゆきくんが持っていったのだろうか。
 取り残された私は寂しさのあまり泣きそうになりながら、木の床に一歩を踏み出した。そのとき、窓の外から「おーい」と呼ぶ声が聞こえた。真っ暗だったはずの外に、いつのまにかたくさんの人たちが集まっていた。
 懐かしい人たちばかりだった。あっくん、さえちゃん、みほ、まーすけ。彼らは八年前の姿のままだった。小学校を卒業する直前の、それぞれに小生意気な笑顔。何も変わっていない。誰も変わっていない。私は自分が二十歳であることが急に恥ずかしくなった。だいたい、向こうはたくさんで私だけ一人ぼっちなのは不公平だ。ずるい。こっちはもうどうしたってあっち側には行けないのに。
 一歩踏み出すごとに、窓の外からかわるがわる彼らが手を振る。私はどんどん歩く。私を呼ぶ声はどんどん追いかけてきて、懐かしい人たちはどんどん手を振る。その中に、おばあちゃんもいた。もしかするとゆきくんもいたかもしれない。置いてこなければならなかったものたちがつぎつぎに手を振って、私は彼らを振り返れなくなり、とうとう走り出した。

◆ ◆ ◆

 黄昏にざわめく街の呼気を感じながら、私は駅のホームで電車を待っていた。昨日見た夢が気になって、はるばる懐かしい街に来てしまった。生まれてから十二年育った街。訪れるのは八年ぶりだ。
 子供だった私は、この街で大人になるのを待っていた。そのくせ、休み時間のお喋りも放課後の戯れも、ずっとずっと、子供のまま永遠に続くものだと思っていた。そんな時代の私が眠る場所。現実の私は、とても遠い土地であくせくと生きている。
 ぶらぶらと街を歩いてみたけれど、懐かしい顔に出会うことはできなかった。景色もずいぶん変わっていて、知らない店がたくさんあった。金持ちのあっくんのお屋敷があった場所に、見知らぬビルが建っていた。私が住んでいた家には、見知らぬ名前の人が住んでいた。その隣に建っていた祖母の家は、もうなかった。私はひどくがっかりし、疲れ、電車に乗って帰るところだった。
 ホームに懐かしい色の電車が滑り込んでくる。電車の姿は変わっていない。祖母を亡くした八年前、私は父と一緒にこの電車に乗って生まれた街をあとにした。荷物は全部トラックで先に行ってしまったから、私の手は空っぽだった。肩から提げた鞄の中には、本とメモ帳とお財布。冷めた飲み物と、ミルクチョコレート。あのときも季節は冬だった。雪が降りそうな曇天の下で、私の気持ちもどんよりと曇って泣きそうだった。雪は好きだったのに。
 引っ越した先の街は暖かいところにあるから、雪はめったに降らない。
 開いた扉から、ほっとした顔の人たちが降りてくる。私は少しばかりのやっかみを込めて彼らを見送る。あとひと息の家路の明るさと、これからはじまる長い家路の暗さを思い比べながら。こっちは最後の新幹線に間に合うぎりぎりの時間だ。家に着くころには日付が変わっているだろう。
 電車から解放された人々の群れが、駆け足気味に私の前後を通り過ぎていく。
 あっ、と声をあげそうになった。
 ゆきくんがいた。
 灰色の人々に混じって、白い手足が舞うようにホームをすり抜けていく。
 とうとう大声で、ゆきくん、と呼んだ。彼は立ち止まった。振り向いて私を見つけると、にっこりと笑いかけてくれた。私は振り返りながら人の波に押されて電車に乗った。目の前でドアが閉まった。
 ゆきくんはもうどこにも見えなかった。
 ぐらり、と景色が傾いて、電車が動き出す。
「ママ、見て、雪だよ!」
 どこかでふいに響く男の子の声。そのとおり、懐かしい街には雪が降りはじめていた。今年初めての雪だ。こまやかな動きで舞う雪に西日が当たり、きれいな紅色がちらちらと光っている。これは友人たちと一緒に何度も見た色だ。雪の中で転げ回って遊んでいたときに、ふと見上げた世界の色だ。
 電車はどんどん速度をあげる。外の景色はべつの街に移っていく。降りはじめの雪も遠ざかっていく。私は戻れぬ悲嘆に暮れながらも、愛おしい気持ちで流れゆくものたちを見つめている。
 あの街にはゆきくんがいる。そしていつかきっと、今の街にも来てくれるだろう。だって、ゆきくんがそう言っていたから。遠いと思っていた懐かしい街は、思い出たちやゆきくんと一緒に、とても近いところにあるのだとやっと気がついた。ゆきくんが教えに来てくれなかったら、私はずっとあの日の離別を恨みながら生きていただろう。私はたぶん、ぎりぎりで間に合ったのだ。私を運ぶ電車に。
「君は奈々子ちゃんという気がするよ」
 どんどん暗がりへと突っ込んでいく電車の中で、ゆきくんのしんとした声が蘇る。私はなんて答えたっけか。


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