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真昼のファンタジィ

でんでん村のでん太鼓
しょうしょう村の笙の笛
言うこと聞かぬ赤子なら
なぐっておねんねさせちめぇ

 なんて美しい子守歌なんだ、とひょろ助は聞き惚れた。歌っているのは近くの川の渡し守らしかった。魅惑的な中年のテノールに、ひょろ助はうっとりと耳を委ねた。近頃彼の左手の甲で宿主を悩ませている赤子の人面瘡も、子守歌が気に入ったのか、今はおとなしく眠っている。

でんでん村のでん太郎
しょうしょう村のしょう次郎
しょうしょう偽物くさくとも
しょうがねぇからメシ喰わせぇ

 子守歌はゆるやかに続いている。切なげで苦しげな語尾が、繊細に震えながら川縁の夕暮れを撫でたので、夕暮れは恥じらって、ますます深い朱に染まった。
 だが、その日も太陽は簡単に沈まなかった。ゆるゆると山の背に隠れそうになったかと思うと、ぐいっと伸び上がり、威勢よく空中で二回転半一ひねりを決めて南の空におさまった。あたりは再び昼になった。
 ひょろ助はぱちぱちと四回のまばたきで太陽に拍手を送った。日に日に太陽の技は磨かれてゆき、日に日に一日が長くなってゆく。太陽は得意げにお辞儀をして、ついでにもう少し東に傾いた。
「おじさぁん、いや、おにいさんかな」
 渡し守がひょろ助に声をかけた。
「乗っていかない? 安くするよ」
 ひょろ助は渡し守を見た。渡し守はこの上もない美少年だった。ひょろ助はまぶしくなって目を細めた。
「あの子守歌を歌っていたのは君かい?」
「そうだよ」
 渡し守の美少年は、魅惑的な中年のテノールで答えた。
「暇なときに歌うんだ」
「もう一度歌って欲しいな」
 ひょろ助は期待を込めて頼んだが、渡し守の美少年は悲しげに首を振った。
「残念ながら、今は歌えないんだ。おにいさんと話をしていて、暇じゃないから」
「そうか、それは本当に残念だ」
 ひょろ助も悲しげに首を振ったが、すぐに気を取り直した。
「ところで、それは君の声? それとも舟の声?」
「ちゃんと僕の声だよ」
 美少年は華のように笑い、魅惑的な中年のテノールで答えた。
「声ばかり使ってるから、声だけ年を取っちゃったのさ」
「手は使わないのかい?」
 ひょろ助は尋ねた。
「お客さんがいないからね」
 渡し守の美少年はけぶる瞳を切なげに細めて、ひょろ助を見つめた。
「ねぇ、乗っていかない?」
「そうだな。乗せてもらうよ」
 ひょろ助は快く頷き、渡し守の美少年と川の上に滑り出た。

◆ ◆ ◆

 影コウモリは自分の影を探していた。自分の影を探すこと、それは彼の種族に課された唯一で最大の使命だった。彼は川の上を滑るように飛んでいた。影は川の中にも落ちている可能性があるのだ。魚のふりをして。あるいは小石やゴム長靴のふりをして。
 飛びながら、彼は今までのつらく苦しい旅を思い返していた。山を飛びすぎて酸欠になったことがあった(あろうことか彼は墜落した)。森の木漏れ日の中から影を探し出そうとして、眩暈を起こしたこともあった(このときも彼は墜落した)。海の上を飛びすぎて酔い、うねる波に危うく飲まれそうになったこともあった(このときばかりは、彼は必死に平衡を保って近くの島ガメに不時着した)。
 だが、どんな困難にも彼が挫けることはなかった。影を見つけて故郷の洞窟に飛んで帰り、本物のコウモリに仲間入りするという夢と実存的使命があるのだ。ただし、彼はあまりにも夢に夢中だったため、故郷の洞窟の場所を忘れていることは忘れていた。
「おや、コウモリだ」
 川の上を滑る影を見つけ、ひょろ助が呟いた。
「こんな時間に、珍しい」
「あれは影コウモリだよ」
 魅惑的な中年のテノールが囁いた。
「昼間のほうが、影は探しやすいから」
 そのとき、ふいにひょろ助の左手の赤子がむずがり出した。
「まんま! まんま!」
 ひょろ助は太陽を見上げた。太陽は丁度、南の空に腰を下ろして一服しようとしていた。
「こいつに昼飯を食わせなきゃぁな」
「人面瘡かい?」
 渡し守の美少年はひょろ助の左手の甲を覗き込んだ。
「だったら、〈やさしき丘の綿ヒツジ〉になにか貰うといいよ。〈やさしき丘の綿ヒツジ〉なら、おいしい食べ物のことを知っているから」
 渡し守の美少年がそう言った途端、二人は川岸に着いていた。そこは〈やさしき丘の綿ヒツジ〉が住む丘だった。ひょろ助は渡し守の美少年に礼を言って、丘を登りはじめた。

◆ ◆ ◆

 〈やさしき丘の綿ヒツジ〉はようやく起き出して顔の形を整え、遅い朝食を摂ろうとしていた。彼の耳は夢見心地でのっそりと立ち上がり、欠伸をしながら周りの音を主人に伝えた。〈やさしき丘の綿ヒツジ〉は、欠伸と一緒に赤子の泣き声を聞いた。
 〈やさしき丘の綿ヒツジ〉が綿の詰まった首を巡らせると、すっかり目覚めていたつぶらな目は、一人の男がこちらにやってくることを伝えた。つぶらな目は理知的な光を宿して男を迎えたので、〈やさしき丘の綿ヒツジ〉は綿飴のようにやさしく挨拶をした。
「私の丘へやふこそ。私に何か用かな」
「人面瘡ができてしまったんだ」
 ひょろ助は左手の甲を〈やさしき丘の綿ヒツジ〉のつぶらな目に見せた。
「こいつに何か食べ物はないだろうかね」
「食ひ物なら」
 〈やさしき丘の綿ヒツジ〉のつぶらな目は、理性と愛に満ちあふれて赤子を見つめた。とたんに赤子は泣きやんだ。
「食ひ物なら、この草が良ひだらう」
「草?」
 ひょろ助は足元を見た。
「左様」
 〈やさしき丘の綿ヒツジ〉は限りなき愛情を込めて答え、自分も草を食べはじめた。
「おいしいのかい?」
 ひょろ助は聞いた。
「おいしひ共」
 〈やさしき丘の綿ヒツジ〉は弱く無知な相手へのやさしさと慈愛に満ちて頷いた。
「佐も無ければ、誰も食はなひだらう。おいしひからこそ、私は食ふのだ」
 ひょろ助は心の底から納得し、さっそく赤子のために手頃な草を摘んでやった。赤子ははじめ渋っていたが、一口食べ二口食べ、とうとうむしゃむしゃと食べ出した。ひょろ助も一緒に草を食べた。美酒のようにまろやかでとろりと甘い草だった。赤子はすっかりおとなしくなった。
「さて、」
 遅い朝食を終えた〈やさしき丘の綿ヒツジ〉は呟いた。
「私は是れから〈眠れる森の白ウサギ〉に会ひに行かねばならなひ」
「〈眠れる森の白ウサギ〉?」
 ひょろ助は興味を持って尋ねた。
「どんな奴だい」
「〈眠れる森の白ウサギ〉は」
 〈やさしき丘の綿ヒツジ〉は綿の詰まった首を森に向けた。
「決して森から出てこなひ。やつて来る者をじつと待つて居るだけなのだ」
 そして、理知的な彼でさえ出会いを待ちきれないかのように、さっそく森に向かって歩き出した。
「〈眠れる森の白ウサギ〉は、会ふべき者にしか会わなひし、会ふべき者しか会つては為らなひのだ」
「おれも会いたいな」
 ひょろ助はますます興味を持って、綿にくるまれた巨体の後を追った。
 ひょろ助の左手では、再び赤子がむずがり出していた。彼は赤子を宥めようとして、足下にあるものに気が付いた。透明で冷たくて柔らかそうなそれは、ひょろ助に怯えてぷるぷると震えていた。
「おまえは、これが恐いのかい」
 ひょろ助は赤子に語りかけた。
「恐くなんかないさ、これはただの「“それ”を言葉にしてはならなひ!!」突然、〈やさしき丘の綿ヒツジ〉が、理性も慈愛もかなぐり捨てて叫んだ。「溺れて仕舞ふぞ!」
 だが、その忠告はほんの少しだけ遅かった。ひょろ助が「水」とつぶやくと同時にたちまちのうちに膨れあがった透明な“それ”は、あっという間に二人に襲いかかってごくりと飲み込んだ。〈やさしき丘の綿ヒツジ〉の綿飴のような体は一瞬にして溶けた。そのとき、彼のつぶらな目には、これから会うはずの〈眠れる森の白ウサギ〉の、清純で無垢な姿が映っていた。彼はいつのまにか出会っていたのだ。〈眠れる森の白ウサギ〉は曇りなきまなざしで、〈やさしき丘の綿ヒツジ〉の運命を迎え入れていた。そして再び目を閉じて無垢な眠りについた。
 もはや丘全体を覆うほどに大きく膨れあがった“それ”は、奔流となって渡し守の美少年と舟を飲み込み影コウモリも飲み込んで、喜びのうなり声を上げた。飲み込まれる直前、影コウモリは自分の下に黒いものを見つけていた。影だ、と思った。彼の心は故郷の洞窟に向かって真っ直ぐに飛んだ。
 貪欲な“それ”は太陽をも飲み込んでしまおうと大きく波打って伸び上がったが、太陽は慌てて南の空のてっぺんに這い上がった。“それ”はしばらく躍起になって大きくうねり暴れていたが、やがて諦めたのか悔しそうに一うねりすると、いずこへか流れ去っていった。
 太陽はしんみりとした気持ちで地上の惨事の痕を見つめた。彼の下には夜のような静寂が訪れていた。渡し守の美少年のこの上ない美貌と魅惑的な中年のテノールは押し流され、影コウモリは影も形も見えなかった。ひょろ助はすっかり壊れてしまい、どんなに頑張っても修復は不可能のようだった。〈眠れる森の白ウサギ〉は無垢な瞳を閉じたまま、相変わらず森から出て来ることはなかった。太陽は悲しみながら西にずり落ちていった。
 人面瘡だった赤子は呆然と立ち上がった。彼はすっかり壊れてしまったかつての宿主を眺め、少年となった自分の手のひらを眺めた。ついでに左手の甲も見たが、彼には何も見出せなかった。彼は泣きたい衝動に駆られた。だが彼はもう赤子ではなかったので、赤子の泣き方を忘れていた。
 彼はよけいに悲しくなって、すがるように太陽を見た。太陽は丁度、彼の存在に気づいて山の背後から再び立ち上がるところだった。


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