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狼が兎と暮らしたら

狼が兎と暮らしたら

1. 飢えた狼

 ガサッと揺れる下草の音を残し、おれの足がピタリと止まった。
 この道のすこし先、大きな〝ねじれブナ〟の根元、若いトネリコの茂みの奥。あの場所から、おれの大好きな匂いが漏れだしている。
 間違いない、あそこに鹿がいる。それと……いままで一度も嗅いだことがない、知らない匂いの生き物も。
 正体不明のヤツが自分の縄張りにいるのはちょっと不安だが、それ以上に、おれの同族の匂いじゃないことにほっとした。ここ最近、覚えのある匂いが縄張りをうろちょろしている気配があって、警戒真っ最中なんだよな。
 それにしても、この未知の生き物の匂いときたら。鹿と同じぐらいにうまそうじゃないか。思わず舌なめずりをしてしまう。狼族のおれからすれば、この森のほとんどの生き物は狩りの獲物だ。屠るべき血肉だ。いったいどんな味の獲物なのか楽しみ――
 な、なに考えてるんだ、だめだ、正気に戻れ!
 おれはぶんぶんと首を振って、雑念を散らした。湧いてきた唾をゴクリと喉奥に押しこめる。
 決めたはずだ。二度と狩りはしないと。もう仲間はいないんだから、鹿みたいな大型の獲物は狩れない――いや、違う違うそうじゃない。おれが狩りをしない理由はただひとつ、エスカを怖がらせたくないからだ。兎族は臆病で、血の匂いを嫌う。おれが血の匂いを付けて帰ったら、エスカは気を失うか、ふるえて部屋の隅にうずくまり、しばらく動けなくなってしまうだろう。そんな怯えたあいつのことはもう見たくない。だから狩りは二度としないって決めたんだ。
 今日、エスカの家を離れてわざわざここまで出てきたのは、狩りのためじゃない。あいつとおれの昼飯のためだ。風邪ぎみのあいつの代わりに、この道の先の赤スグリの実を採りに来ただけなんだ。あいつと暮らすようになってから、おれの腹を満たすのは血がたっぷり滴る生肉じゃなくて、赤い果汁がたっぷり滴る小さな木の実になったんだ。それから、近くの川で獲れる魚と、おれの体よりもでっかいオバケキノコ。キノコは味がぼんやりしていてよくわからないが、腹はふくれるのでまあ悪くない。魚は独特の臭いが苦手だが、肉に似た牙ざわりで食べやすいから好きだ。味もなかなかいい。赤スグリの実はやたらと酸っぱいが、果汁が喉を潤す感覚は悪くない。なんたって、エスカの好物だしな。
 そう、エスカの好物を持ち帰ってあいつの笑顔を見ることこそが、いまのおれの使命。鹿と謎の生き物のことなんか無視して、さっさと赤スグリの茂みに行こう。
 そう思うおれの心に反して、足はまるで狩りの前ぶれのようにゆっくりと、音もなく下草を踏んだ。うまそうな鹿の匂いは、さっきよりもいっそう濃くなっていた。お昼前の空腹にはこたえる仕打ちだ。早くここを切り抜けないと。身を屈めて息を殺してる場合じゃないぞ。
 姿勢を戻すと同時に、きゅう、と腹がせつなく鳴いてしまう。――そういえば、おれはいつから肉を口にしてないんだっけ? 姉と喧嘩して群れを飛び出して、慣れない森で道に迷ったあげく水を飲もうとした川で間抜けにも足をすべらせて流されたところをエスカに救出されたのは、今年の露草がはじめて咲いた日だった。エスカの暦でいうと、六番目の月の最初の日だ。そして今日は、エスカの暦でいうと、七番目の月の真ん中の日。つまり、月の満ち欠けが一巡り以上しているってことだ。よくそんなに長いこと、肉を食わずにいられたなぁ。ああ、舌や喉奥に滴り落ちる血の味が恋しいな。うまそうな鹿がこんなに近くにいるのに、あの肉を味わえないなんて。この喉の渇きを、鹿の血で潤せないなんて……!
 息を殺して近づけば近づくほど、獲物の匂いは濃くなっていく。腹がぐるぐると唸りだす。口中に唾があふれだす。
 ――も、もうだめだ、我慢できない!
 おれはとうとう牙を剥きだし、がむしゃらに地を蹴った。

* * *

「うわっ!」
 茂みの奥の獲物はあっさり飛びのいて、おれの牙と爪をよけた。思いのほか大きな声を発した獲物におれはひるみ、体を強張らせてしまった。獲物はそのすきに、高いブナの枝へ飛び移った。おれの爪が届かない場所だ。こうなると狩りは失敗だ。おれはギリリ、と牙を噛みしめた。
 よく見ると、獲物の手には長いロープが握られていた。ロープの先端をブナの枝に引っ掛け、それを引っ張って飛び上がったらしい。ずいぶん器用なマネをする獲物だ。まるで猿みたいだ。おれの知っている猿とは匂いが違うが、新種か? いや、すくなくとも〝動物の猿〟じゃないな。ほそい枝の上に足だけで危なげなく立っているところを見ると、おれたちと同じ二足歩行の生き物だ。それに、ちゃんと服も着ている。きっと、おれやエスカと同じく、族に属するやつだろう。だとしたら、猿族、とでも呼べばいいのか? 猿にも族(トリブ)があったなんて、知らなかったな。
「ね、おいらの言ったとおりでしょ?」
 声はブナの枝から降ってきた。
「ああ、ティオの察知がなかったら危なかったな。思っていた以上に俊敏だった、この……えーと、魔獣……じゃないんだっけか。狼さん? それとも、人?」
「匂いからして、狼と人間のはんぶんこ、ってとこだね」
「なるほど、獣人か。人間ならざっと十三、四の子供、ってとこだろうけど」
 ……なんだ? この獲物、いったいだれと会話してるんだ? 二匹いるのか? それなら、鹿はどこに……?  あたりを見回そうとしたとたん、ぐらり、と体がかたむいた。
 しまった、急に走ったからだ……最近、走るのがやたら苦しくなってるんだ。すぐに息が切れるし、走ったあとに眩暈が襲ってくる。肉を食べていないせいだろうか。やっぱり、エスカの言うとおりだったのかな。狩りをしないで生きるなんて、おれにはムチャなことだったのかな……。
 体が地面へと倒れこむ。体勢を保とうとブナの幹に突き立てたおれの爪を裏切って、視界はあっという間に暗転した。

* * *

 倒れ伏したおれの鼻を、甘い匂いがくすぐる。視界は暗いけれど、目で見る以上に、そして手にとる以上にはっきりとわかった。おれの鼻先に肉がある。あんなに恋い焦がれた鹿の肉が!
 すがるように爪を伸ばし、つかみ、牙を突き立てた。噛み切り、啜り、喉を鳴らして飲みこ――あれ?
 久しぶりの肉はやたらと筋張っていて、ぼそぼそした噛みごたえだった。期待していた汁気はまったくない。噛みちぎるのに苦労するし、思ったように飲みこめない。そのうえ、妙に煙たい匂いがする。……それなのに、ふしぎだ、これまで食べたどんな肉よりもうまい。なんだ、これ、ただの鹿の肉とは思えない。噛めば噛むほど鹿の甘みが増してくる。鹿の脂って、こんなに甘かったのか。こんなに口を潤してくれるものだったのか。
 とめどなく湧きだす唾とともに、肉を深くふかく噛みしめた。ああ、満たされる。体に力が満ちてくる―― 「おっ、食べてる食べてる。すごい勢いで食らいついてるね。よっぽどお腹が空いてたんだね」
「私の昼食の匂いにつられて来たのかな?」
「それもあるだろうけど、相棒が臭いからじゃない?」
「えっ……」
「解体するのにてまどってたでしょ? 鹿の匂い、めっちゃ移ってるよ」
「うっ……ちゃんと水浴びしたのに……丸一日経ってるのに……」
「慣れない大型の獲物なんかに手を出すからだよ」
「だってたまたま罠に掛かってくれたし、近くに川があって血抜きが楽だったし、食糧危機だったし」
「はいはい。ま、こうやって飢えた狼っ子に分けられるぐらいの肉が手に入ったんだから、ちょうどよかったね」
「まあ、この子もお腹がいっぱいになれば、私を襲ってくることもないだろうからね」
「餌付けってやつだね」
「こら、ティオ、失礼な言いかたはやめなさい。たぶん聞こえてる」
 ぴくぴくとおれの耳が動いている。ああ、聞こえている。知らない声たちが、のんきな調子で会話をしている。
「だけど、お腹を空かせた子に、急にものを食べさせちゃって大丈夫? お腹壊しちゃわない?」
 これは雄の子供らしき元気な声。それから、
「そこまで衰弱してるようには見えないし、肉の量も片手に乗る程度だから、大丈夫じゃないかな?」
 雄か雌かよくわからない声。子供じゃなさそうだけど、かなり若い声だ。
「まだ食べられそうなら、あとでスープかお粥を作ろう」
「狼スープ?」
「違う」
 最後の一切れをごくんと飲みこんでから、おれはようやく目をひらいた。体はまだ草の上に這いつくばったままだった。力の戻ってきた腕で体を起こし、顔を上げた。
 おれのすぐ横で、だれかがねじれブナのねじれた根っこに腰かけていた。さっきの獲物だ――いや、獲物じゃない、おれの空腹の救い主で、猿族かもしれない正体不明の生き物だ。鹿の匂いを纏っているが、それはこいつがいま、布包みの中の鹿肉を頬張っているからだろうか。こいつ自身がもともと発しているのは、未知の匂いだ。エスカの匂いみたいに、食欲をそそるのが困りものだ。
 それにしても、こいつが耳を隠しているのはわざとなのか? 帽子なんてしゃれたものを頭にのっけているせいで、耳の形がわからない。すくなくとも、鹿族のようなでかい角は生えてないようだが……。顔のつくりも、帽子のつばで影になっていてよく見えない。体は大きなマントに覆われていて、毛の色や尻尾の形すら不明。手はおれたちと同じ五本指のようだが、手袋に覆われているから、爪の形どころか有無もわからない。要するに、なにひとつとして、正体のつかみどころがない。……いや、狼族のおれを前にして平然としているし、鹿の肉を食べてるんだから肉食族なのは間違いないな。でも、わかるのはそれだけだ。ひょっとして、出身の族(トリブ)がわからないよう、特徴を隠しているんだろうか。ということは、こいつもおれやエスカみたいなはみ出し者か? 棲み家を探しに来たんだとしたら、ちょっと困るな。ここはエスカとおれの縄張りだ。
 ひとまずこいつの正体は謎だが、こいつの肩に乗っている小さな生き物なら、正体はわかりやすい。ただのちっこいトカゲだ。やたらゴツゴツした黒い鱗と、赤スグリの実みたいな色の目ははじめて見るが、頭から尻尾までひょろ長い形は、トカゲそのものだ。匂いもそこらのトカゲとほとんど変わらない。なぜだかちょっと焦げ臭いな、ってぐらいで。
 その黒トカゲが、赤い目をぐるりと動かして、おれを見た。
「おいらの火と煙で炙った肉、おいしかった?」
「肉のことは礼を言うが、あんた何族なんだ?」
 トカゲとおれが口をひらいたのは同時だった。そして、
「しゃ、喋ったあ――!?」
 叫んだのも同時で、発した言葉も同じだった。
 ちょうど立ち上がろうとしていたおれは驚きのあまり、その場でどすんと地面に逆戻りしてしまった。尻尾の付け根が痛い。
 ……気のせいじゃないよな? このトカゲ、いま喋ったよな!? まさか、ただのトカゲに見えて、こいつもどこかの族(トリブ)のやつなのか!?
「ティオが喋って驚かれるならわかるが、ティオが獣人相手に驚くことはないだろう」
 あきれたようなこの声は、推定猿族のものだ。帽子の影の下で口が動いているからわかる。
「だって、魔獣みたくガウガウ言うイメージだったんだもん。しかもこんなに特殊な森の中で、森の外の人と同じ言語を流暢に喋るなんて、意外すぎるでしょ」
 推定猿族を見上げて、黒トカゲが忙しく口を開閉させている。やっぱり聞き間違いなんかじゃない、子供みたいなこの声は、黒トカゲが発している。
「妖精のくせに、獣人種に対して偏見がある」
「だって、魔獣が化けてるわけでもない生粋の獣人なんて、希少すぎるもん。おいらはじめて見たよ」
「獣人以上に希少なサラマンダーがそれを言う? たしかに、この地方で獣人と遭遇するのははじめてだけど、向こうの大陸では人間に交ざって暮らしている者もけっこういるよ。こちらの彼より獣に近いタイプでも、ふつうに人語を話していた」
「へー、世界は広いなぁ。……ん? こちらの、彼?」
「……ん?」
「ううん、なんでもない。それより相棒、ちょっとびっくりしたんだけど、もしかしてあっちの大陸の言葉も喋れるの? おいらの翻訳ナシに?」
「ふっふっふ、私をみくびらないでくれ、ティオ。これでも旅人の端くれだ、各地の主要な言語は習得している」
「えっ、すごい……すごい調子に乗った顔してる」
「あ、あんたら、何者だ!?」なにやらぐだぐだとのんきに会話をつづけているようだが、こっちの心境はそれどころじゃない。「そいつ、トカゲなのになんで喋るんだよ!?」
「こちらの彼は、トカゲに対して偏見があるようだね」
「おいらはトカゲじゃないやい!」
「うわっ、なんだこいつ、火を噴いた!」
 おれは思わず飛びすさり、トネリコの茂みに身を隠した。
 けっして、トカゲの口からぶわっと噴き出した火が怖かったわけじゃない。ちょっと驚いただけだ。いや、ほんのすこしは怖かったけど。だけど、おれはむやみに火を怖がる臆病者なんかじゃないぞ。家ではランプも使ってるんだからな。
「へへん、まいったか」
 腹立たしいことに、猿族の肩の上でトカゲがふんぞり返っている。とっ捕まえて食ってやりたくなる憎らしさだ。
「こら、ティオ、ムダに威嚇するのはやめなさい」
 鹿肉を食べ終わったらしい猿族が、口元をぬぐって立ち上がった。茂みに隠れているおれに向かって、手を差しだしてくる。鹿の匂いがふわりと舞っておれを誘う。――う、我慢だ我慢。恩のあるやつを襲うわけにはいかない。そもそも、狩りなんてするつもりはなかったんだから。
「私は見てのとおり、なんの変哲もない、通りすがりの一般的な旅人です。連れがいろいろと失礼をしてすみません。この変哲だらけのトカゲは、妖精の一種で、サラマンダーなんです。サラマンダーなので、喋れるし、火を噴けるんです」
「……ヨウセイ? さらまんだあ? なんだ、それは」
 ヨウセイなんて族(トリブ)は初耳だ。まあ、この森は広いから、おれの知らないことはいっぱいあるんだろうな。
「えーと……魔力というのはご存じですか?」
「マリョク? 知らないな」でも、エスカなら知ってそうだな。あいつは物知りだから。
「では、ティオのことはただの通りすがりの変哲だらけのトカゲとでも思っていただければ」
「だからおいらはトカゲじゃないし、変哲だらけでもないやい!」
「いてて。こら、噛むな」
 猿族のやつ、いきなり指先にトカゲをぶら下げたと思ったら、ドタバタと追いかけっこみたいなことをはじめたぞ。なんだか知らんが、仲良さそうだな。
 おれはふと肩へ指を伸ばした。うなじの横から垂れている三つ編みに触れる。「これはボクたちの仲良しの証しですよ」そう言ってエスカが編んでくれた、おそろいの三つ編みだ。狩りに出る前に仲間の髪を編み合うのは狼族の習慣だが、それをエスカが真似てくれたんだ。ただ、おれはもう狩りをしないから、編みっこは毎朝の挨拶みたいなものになっている。エスカの髪はさらさらでやわらかいから、毎日編むのが楽しみだ。
 なんて、ちょっと幸せな気分にひたってる場合じゃなかった。おれの前には火を噴く危険なトカゲと、正体も目的も不明な怪しいやつがいるんだった。油断は禁物だ。
 推定猿族に目を向けると、ブナの枝を見上げて悔しそうに口をひん曲げていた。トカゲは枝の上に逃げこんだらしい。と、おれの視線に気づいたのか、猿族は小さく肩をすくめてこちらに顔を向けた。
「ちなみに、先ほどティオが見せたのは、威嚇用の幻の炎です。そんなに怖がることはないですよ」
「あっ、タネ明かししないでよ!」
「そ、そうなのか。脅かしやがって……」
 おれは身を潜めていたトネリコの茂みから這いだして、ようやく猿族の前に立った。こうして見ると、相手はおれよりすこし背が高い。もしかしたら、おれより強いやつかもしれない。そういえば、ねじれブナの根元に転がっているばかでかい鞄、あれはこの猿族のものだよな。さっきからうまそうな鹿の匂いを発していて、気になってたんだ。あの中にはきっと、さっきおれが食べたのと同じ鹿の肉が入っている。つまり、この猿族は、群れなくても鹿を狩れるすごい力量の持ち主ってことだ。やっぱり強いんだ。うっかり噛みつかなくてよかった。
「まあ、ここで言葉の通じるかたに出会えたのは、僥倖ですね」
 猿族が帽子の下で小さく笑った。
「ちょうど、道に迷って困っていたところなんです。進めど進めどずっとヘンテコな森で……。このあたりに、食糧を賄える町や村があれば、教えていただけないでしょうか。あるいは、森の出口を」
「森で道に迷うのがすっかり趣味になってるよね、相棒」
 ブナの木を駆け下りてきたトカゲが、猿族の肩に飛びつく。
「そんな趣味があってたまるか」
 帽子の下の口元がひん曲がる。
「ティオが『この森、ちょっと変わってるね』って言うから、面白そうだなと思って入ってみただけで、迷うつもりはなかったんだ」
「道も知らずに道もないような森に入れば、そりゃ迷うでしょ。あと、さりげなくおいらに責任なすりつけないでよね」
「さすがティオ、私の責任転嫁の手段をよくわかってるね。まあ、いざとなったら、ティオがそのへんの妖精に道を尋ねてくれるかと」
「おいらを頼りすぎ! この森は魔力分布が変わってて、妖精がすくないって最初に言ったでしょ!」
「事情はよくわからんが、ずいぶん楽しそうな迷子だな」 おれは肩の力を抜いた。なんだ、おれとエスカの縄張りを荒らすつもりは毛の先ほどもなくて、ただほんとうにうっかり迷いこんだだけなんだな。それなら、飯の借りはすんなり返せそうだ。
「あんた、タビビト、って言ったっけか」
「あ、はい」
 やいのやいのとトカゲと言い合いをしていた猿族、もといタビビトが、はっとしたようにこちらへ顔を向けた。この反応、おれのことちょっと忘れてたな。
「おれは狼族(トリブ・ルー)のカッチャだ。このあたりを縄張りにしている」
 握手という行為は、族の違う者同士が仲良くするときにする挨拶だと、エスカから教わった。タビビトもそれを知っていて、さっき手を差しだしてくれたんだろうな。
 だから今度こそ、おれのほうから手を差しだした。
「あんたには恩がある。おれの知っている範囲でなら、森を案内するぜ」そして円満に縄張りを去ってもらおう。 「ありがとうございます」
 嬉しそうに笑ったタビビトが、しっかりと手を握り返してくれた。
「よろしくお願いしますね」
 しまった、鹿の匂いの付いた手がふたつ重なったせいで、うまそうな匂いがますます強くなってしまった。涎がじわりと口の端ににじむ。
「気をつけて。そいつ、まだ相棒のこと食べたがってるよ」
「えっ」
 トカゲがよけいな口出しをしたせいで、タビビトがびくっと手をひっこめてしまう。
「なーんちゃって。敵意も害意も感じられないから大丈夫だってば」
「脅かさないでくれ、ティオ。失礼をしてしまったじゃないか」
「でも、本人にその気はなくても、まだまだお腹が空いてるから、つい食べたくなっちゃうみたいだねぇ」
 いくらなんでも、借りのあるやつにそんなことはしないぞ――トカゲに言い返そうとひらいた口よりも先に、きゅう、とおれの腹が返事をしてしまった。
 タビビトが口に笑いを含んで、ねじれブナの根元に転がっているうまそうな例の鞄を指した。
「鹿の燻製肉、まだありますよ。食べますか?」
 ぐるる、と腹がいっそう騒がしくなるほど魅力的な誘いだが、おれは慌てて首を振った。
「いや、いい。おれ、ほんとは肉断ちしてるんだ」
「肉断ち? 狼さんなのに、思い切ったことをするねぇ」
 からかい声のトカゲを、おれはギロリとにらむ。
「エスカが血の匂いや肉の匂いを怖がるんだ。さっき食べたぶんだけでもエスカに申し訳なく思ってるのに、これ以上食べたら、合わせる顔がなくなる」
「エスカさん?」タビビトが首をかしげる。
「兎族(トリブ・コニー)だ。一緒に棲んでる」
「コニー?」タビビトが反対側に首をかしげる。
「兎さん、って意味らしいよ」おれより先にトカゲが説明を加えた。そして目をほそめつつ、なぜかじっとおれを見てくる。
「なるほど、カッチャちゃんって、なかなかハードなプレイをしてるんだねぇ」
「こら、ティオ、下世話だぞ」
 タビビトが指でトカゲを小突いた。もしかして、おれはトカゲに失礼なことを言われたんだろうか。おれの尻尾よりもちっこいトカゲのくせに、さっきから生意気だな。噛みついてやりたい。まずそうだけど。
「しかし……」帽子のつばを指先でぐいっと下げたタビビトが、物思わしげな声を出す。「肉食のあなたが肉を断ったままでいるのは、かなり危険では? 飢えて倒れてしまうかもしれないし、その前に、我を忘れて獲物に飛びかかってしまうこともあるでしょう。さきほどのように」
「うぅ……」
 タビビトは痛いところを突いてくる。
 たしかに、さっきは肉恋しさのあまり暴走してしまった。獲物を狩ることで目の前がいっぱいになって、エスカのことが頭からすっぱり消えていた。その事実に、体中の毛がふるえる。こんなことがまたいつ起こるとも限らない。そのとき、そばにいるのが鹿でも兎でもなく、エスカだったら……? 兎族のうまそうな匂いが、おれの食欲を誘ってしまったら……? さっきみたいに、おれの頭からエスカのことがすっぱり抜け落ちてしまったら……?
 おれはきっと、エスカを――
 だめだ、だめだ、そんなことは考えたくない。
 おれは勢いよくぶんぶんと首を振って、嫌な思考を散らした。指先はすがるように肩へ伸び、エスカとおそろいの三つ編みを握りしめる。
「まあ、私は通りすがりのただの旅人ですから」帽子の影の下で、タビビトがうっすらと笑っていた。「あなたの決意に口をはさむのも、野暮なことでしょうね」

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