TOP » Library » 長編小説 » 魔女の森 » 第一話

魔女の森

第一話 人形の館

1. 旅人とトカゲ

 とん、ぱたん、ぼたっ。
 葉を打つ雨音がしだいに強くなってきて、旅人はますます足を速めた。暗雲たちこめる空を、ぴしゃり、と閃光が穿つ。一拍おいて、地を揺らす轟音。旅人はとうとう駆け足になった。道の先には二階建ての館がある。その正面玄関には、立派な庇が張り出している。旅人は帽子を押さえ、マントをひるがえして、その庇の下へ駆けこんだ。と同時に、背後を滝のような雨が閉ざした。
 すんでのところで水難を逃れた旅人は、帽子を脱いで雫を払い落としながら、自分が来た方角を見やった。あたりは驟雨に煙っていて、森の中だか滝の中だかわからない。この館に続いていた石畳さえ、すっかり水飛沫に呑まれて見えなくなっていた。
「おまえさん、危ないところだったねぇ」
 雨音にも雷鳴にも負けない唐突な声だった。
 旅人が振り向くと、館の扉がうっすらと開いていた。その隙間から、皺くちゃの顔が覗いている。
 旅人は老婆に会釈した。
「すみません、しばらく軒先をお借りします。雨が止んだら出ていきますので」
「この降りっぷりなら、じきに止むね。だけど、おまえさんの足元はもう水浸しじゃないか」
 重そうな木の扉がギイィと軋んだ音をたて、老婆の全身があらわれた。顔と同じく、四肢も皺だらけだ。とはいえ、背筋はピンと伸びてかくしゃくとしている。旅人をうかがう目の光にも衰えはまったく感じられない。後ろにひっつめた灰色の髪にもまだ艶が残っていて、黒いドレスの洒脱な刺繍もよく似合っている。重厚なお屋敷の住人にふさわしく、品のよい身なりをした老婆だった。しかし、片手にランタンを提げて旅人へにっかりと笑みを向けるその佇まいは、深い森の中で唐突にあらわれた館と同じくらい、怪しげなものだった。
「小さな旅人さんを軒先で濡らしたまんまにするほど、あたしも奥様も無慈悲じゃないよ。入っておいで。暖炉で靴と服を乾かすといい」
 帽子を脱いであらわになった旅人の風貌は、成熟した大人とは言いがたい。背丈も老婆よりひと回り低い。老婆が案じる声を出すのも、無理なからぬことだった。
「こちらの庇のおかげで、たいして濡れていません」
 旅人は帽子を目深に被りなおしてから、ゆっくりと首を振った。
「靴が濡れるぐらいは慣れてますし、このままでも大丈夫です」
 今度は老婆のほうが首を振った。
「雨が止むころには日が暮れる。おまえさんがうちにたどり着いたのもなにかの縁だ。悪いことは言わないから泊まっていきな。この森の先に進みたいならね」
「ああ、それなんですが」
 老婆の手招きをさえぎって、旅人がぽん、と手を打った。
「ちょうど、道に迷って困っていたところでした。たまたま目に入った一本道をたどったら、ここに着いたんです」
「人形姫の塔に行きたいんだね?」
「……人形姫?」旅人は首をかしげた。「いえ、うっかりこの森に迷いこんでしまっただけなので、できれば出口を知りたいのですが」
「〈魔女の森〉を出たいってんなら、行き先はけっきょく同じだね」
「魔女の森?」旅人はさらに首をかしげた。
「この森はそう呼ばれてるのさ。なんせ古の魔女が創った森だからね」
「なるほど。魔女って、いるところにはいるんですね」
「だからこの森ではたまにふしぎなことが起こる。おまえさんが道に迷ったのもそのせいだろうね」
「春にこんな夕立が来るのも?」
「ああ、この時期に雨が降ることじたい、珍しい。おまえさんをこの家で休ませたいという、魔女の思し召しかもしれないね。さあ、そろそろ扉を支えているのも疲れてきたよ、早く中へお入り」
「しかし……」
「いいじゃん、泊めてもらいなよ」
 どこからともなく、はきはきとした少年の声が聞こえた。
「ティオ……」
 旅人は背負っていたバックパックに腕を回した。脇ポケットの留め具を外す。待ってましたとばかりに、黒いものがポケットの蓋を持ち上げた。長い体がちょろりと外に這い出す。それはトカゲの形をしていた。大人の手のひらから尻尾がすこしはみ出す程度の、可愛らしいサイズのトカゲだ。ごつごつした溶岩状の黒い鱗に、火のような赤い目が灯っている。黒トカゲはバックパックをちょろちょろと伝って、旅人の肩に乗った。そして、先ほどと同じ少年の声で主張した。
「せっかくのお誘いを無下にする気? おいらは夕立で濡れた地面の上よりも、よく手入れされた暖炉の中でゆっくり休みたいよ」
「まあ、ティオがそう言うなら……」
 旅人は黒トカゲの言葉にあっさりうなずいた。
 ふたたび帽子を脱いで、お邪魔します、と老婆に頭を下げ、ブーツの雫をかるく振り落としてから、館の中へ足を踏み入れる。
「喋るトカゲとは、驚いたねぇ」
 扉の閂を下ろしながら、ちっとも驚いた様子のない老婆が言った。
「トカゲじゃないやい」
「竜の子供かい? いるところにはいるもんだねぇ」
「いえ、妖精の一種です」
 歩き出した老婆に、旅人も続いた。広々とした玄関ホールは上部が吹き抜けになっており、両脇には弧を描く階段がある。歴史ある豪邸の、典型的な設えだ。老婆はしっかりとした足取りで階段を上がっていく。旅人は臙脂色の絨毯が泥で汚れるのを気にしてか、おそるおそるといった様子で足を運ぶ。
「長いこと〈魔女の森〉にいるが、妖精を見たのははじめてだよ。もっとも、竜だって見たことはないがね」
「竜は個体数がすくないですし、人間嫌いで隠れてますからね。私も旅のあいだに遭遇したのは一度きりです」
 日が落ちるにはまだすこし早いが、空が黒雲に覆われているせいで、館の中は薄暗い。老婆が片手に提げた羊皮紙のランタンが、階段にゆらゆらと淡い影を落とす。
「おいらはサラマンダーだから、半分竜みたいなもんさ。もう子供じゃないけどね。おばあちゃん、今日だけで妖精と竜をいっぺんに見られてよかったね!」
「おやおや、そうかい、今日は記念すべき日だね。あたしはサラマンダーといや、平べったくて丸くってサンショウウオみたいに愛嬌のある姿だと思っていたが、本物のサラマンダーってのは、ずいぶん精悍でいなせな顔をしてるんだねぇ」
 おだてられた黒トカゲは、旅人の肩の上で「へへん」と得意げにふんぞり返った。
「おいらは火も吐けないような旧式のやつらとは違うのさ。なんたって、新時代のサラマンダーなんだぞ」
「あ、火を吐くからといってお宅を火事にするようなことはないのでご安心ください。煙草よりも安全です」
「火を消すのも得意なのさ!」
「そうかい、それは頼もしいねぇ」
 二階の廊下をゆっくり進んでいた老婆は、ひとつの扉の前で足を止めた。
「さあて、旅人さんたちはどんな部屋がお好みかね?」
 言いながら、老婆は扉を大きく開けた。
 轟音とともにカッと瞬いた空が、暗い部屋の光景をわずかのあいだだけ浮かび上がらせた。
「……すくなくともこの部屋ではありませんね」
 老婆越しに部屋を覗いていた旅人は、一歩あとずさってからそう言った。
「おいらは暖炉のある部屋ならどこでもいいや」
 トカゲは旅人の肩の上で暢気そうに尻尾を揺らした。
「それなら、ちょいと狭いが、こっちの部屋はどうかね」
 さらに廊下を進んだ老婆が、隣の部屋の扉を開けた。カッと瞬く閃光と同時にさっと室内へ視線を走らせた旅人は、ほっとした表情になってうなずいた。
「この部屋でお願いします」
「ま、ふつうがいちばんだよね」
 黒トカゲも同意を示した。

* * *

「晩餐の準備ができたら呼ぶからね、それまでゆっくり足を伸ばすといい。ああ、晩餐には奥様もいらっしゃるから、ご挨拶を頼むよ」
 そう告げて老婆は部屋を去った。
 旅人は老婆から借りたランタンを掲げ、改めて室内を見回した。こぢんまりとしているが、一晩過ごすだけではもったいないほど贅沢な客室だった。凝ったレリーフが刻まれた白大理石の暖炉。その手前には、同じ白大理石のローテーブルと、天鵞絨張りの椅子。そして、暖炉の真向かいの壁にでんと設えられた、天蓋付きの寝台。
 旅人の体を伝って床に下りたトカゲが、ふかふかの絨毯の上を楽しげに走り回った。
「どっかの女領主のお屋敷に泊めてもらったときのことを思い出すね」
「思い出させないでくれ。あのときは逃げ出すのがたいへんだった……」
「まさか夜這いされるとは思わなかったよね。あのおばあちゃんならそんな心配はなさそうだけど」
「心配以前にむしろその発想に至れないんだが」
 旅人はランタンをローテーブルに置き、バックパックを下ろして荷を解いた。そしてすぐに、靴を室内用のやわらかなものに履き替えた。続いて、部屋に用意されていた薪を暖炉内に組み上げた。暖炉の縁に張りついて待ちかまえていたトカゲは、嬉しそうに薪の隙間に潜りこんだ。たちまち火が熾り、ほどよい大きさの炎となって燃え盛った。旅人は暖炉の前に濡れたブーツを並べ、それから深く息をついた。
「……ちょっと引いたな。いや、かなり引いた」
「あのイケイケ女領主?」
 トカゲの声は火の中からでもはっきりと聞こえてくる。
「それはもう忘れて。あっちの部屋のこと」
「ああ、あれ。びっくりだったよねー」
 炎を割ってトカゲが黒い顔を突き出した。
「大小さまざまいろんな種類の人形たちが、壁際をみっちり埋め尽くしててさ。みんなこっちをじっと見つめててさ。しかも雷で目がギロって光ってさ」
「ベッドはあちらの部屋のほうが大きくて豪勢だったが、あんな恐ろしい空間で安眠できる気がしない」
 脱いだばかりのマントを抱きしめて、旅人がおおげさに身を震わせる。
「この部屋はいいの? あの空間から壁一枚しか隔たってないけど」
「妙な視線とかへんな気配とか怪しい物音さえなければ、じゅうぶん安眠できる。久しぶりの屋根の下だからね。それに、この部屋には人形はいなそうだし」
「そういえば、この家、玄関ホールにも廊下にも人形が飾られてたね。パッチワークのエプロンが可愛い布の人形とか、道化っぽい格好の木製の等身大人形とか、こういう館にはおなじみの、ブリキのゴツい甲冑とか」
「甲冑は人形の範疇かな? まあ、人形収集家って、いるところにはいるもんだからね」
 暖炉そばの椅子に帽子とマントを引っかけた旅人は、頭が床につきそうなほどかがんで椅子やベッドの下を覗いた。続いて、衣装箪笥や鏡台の抽斗をかたっぱしから開けては閉めた。さらに、バルコニーに続く窓を開けて雨もいとわず顔を外に出し、周囲をきょろきょろと見回した。それから、今度は部屋の出入り口まで行って、扉に耳を張りつけたまま、鍵を何度か開け閉めした。
「外側から勝手に掛け外しできる仕様ではなさそうだ」
 旅人の一連の行動を眺めていたトカゲが、呆れたように目を細めた。
「警戒しすぎ。見た目ほど怪しい人じゃないよ、あのおばあちゃん。隠してることはあるみたいだけど」
「やっぱり怪しいじゃないか」
「誰にだって知られたくない秘密ぐらいあるでしょ。害意とか敵意とかは感じられなかったから大丈夫だってば」
 トカゲはのそのそと暖炉から這い出した。ぶるっと身震いして、鱗から灰を振り落とす。
「うん、いい寝床だ、完璧」
「こら、誰が掃除すると思って……。ただ、お婆さんが無害でも、奥様とやらが安心安全な人とはかぎらないだろう。ほかにも住人や客人がいるかもしれないし」
「今日はやけに用心深いね。巨大な胸の女領主のせい?」
「それは関係ないからさっさと忘れなさい。だってティオ、これまでひと気なんてこれっぽっちもなかった深い森の中に、いきなり立派な人家がぽつんと建ってるなんて、おかしいじゃないか。どこから食材や日用品を調達しているのかわからない。あの大量の人形だって、なんのためにあるのやら……」
「自分が食材か人形になっちゃうかもしれないって? 杞憂だと思うけどねぇ」
 旅人が差しだした指先から二の腕へと這い上がったトカゲは、首をかしげてチロリと舌を伸ばした。
「すくなくとも、このあたりに人間の血の匂いはしないよ。ついでに言えば、おいらたちのほかに二人ぶんの気配しかない。おばあちゃんと奥様の二人暮らしなんだろうね」
「たった二人? この広い豪邸に? まあ、それなら、奥様については挨拶のときに判断しても遅くはないか……」
 旅人は考え深げな顔で椅子にどっかりと腰を下ろした。
 と思いきや「うわ、沈みすぎ」と慌てて立ち上がり、浅く腰かけなおした。
「まったく、根っからの貧乏人だなぁ」
 ローテーブルに飛び移ったトカゲは、呆れ声で尾を振った。
「ま、逃げるにしたって、雨があがってからのほうがいいし、腹ごしらえもしておいたほうがいいでしょ。食事になにか盛られてたって、あらかじめおいらの鱗を飲んでおけば安心さ」
 偉そうに胸を張ったトカゲを見て、旅人の頬がほんのりゆるむ。
「そうだね。奥様と食事に関しては、妖精のティオに任せるよ」
 トカゲがランタンに巻きつくしぐさを見せると、旅人はランタン上部の覆いを取り払った。トカゲは嬉しそうに羊皮紙の筒に入りこみ、炎をついばんだ。
「おっ、なかなかの美味」
「暖炉で満腹しなかったの?」
「おやつは別腹」
「贅沢を覚えさせてしまった……」
「そうそう、これは妖精の勘だけど」
 満足げにチロリと舌を出したトカゲが、ランタンの縁から旅人を見上げた。
「たぶん、近くに町があるよ。ご飯も日用品もそこから調達してるんじゃないかな」
 旅人の顔がぱっと輝いた。
「朗報だ。町があるということは、そこで森が途切れているはず。つまり、町にたどり着ければ、森の外に出られるかもしれない」
「だといいけどねぇ。なんせ、〈魔女の森〉だからねぇ」
「そう簡単にいくなら、いまごろとっくに抜け出せてる、か……」
 旅人は今度こそぐったりと椅子に沈みこんで、深々とため息をついた。
「まだ春も浅いのに妙に暖かくて過ごしやすいあたり、この森は気候ごと閉ざされてるんだろうな。どうしてそんなことになったのか、森の成り立ちについて詳しく知りたいところだ。あとであのお婆さんに聞い――」
 言いかけ、急になにかに気づいたようにはっと顔を強張らせる。
 そして、これまで以上に深刻な声音でつぶやいた。
「しまった。私としたことが、ぬかった」
「どうしたの?」
「お婆さんにお手洗いの場所を聞きそびれた」
「聞き返した時間と心配した心を返して」

* * *

 森の木々をたっぷりと濡らした夕立は、日暮れと入れ替わりに去っていった。
 そして館が黄昏の闇に沈むころ、旅人が客室に戻ってきた。トカゲは暖炉の炎の奥から、眠たげな声で出迎えた。
「おかえり、長かったねー。お手洗い、見つかった?」
「見つかった。ほかにもいろいろ見つかった。最後はお婆さんに見つかった」
「あー、やっぱり、かたっぱしから扉開けてみたんだ?」
「二階には鍵の掛かってる部屋はなかった。みんな客室っぽい。そしてここ以外、だいたい人形がある」
 旅人は手に持っていたお盆をローテーブルに置いて、椅子に浅く腰かけた。お盆には老婆から借りた陶器の水差しと、木製のコップが載っている。
「じゃあ、この部屋は人形嫌いのお客さんのための部屋なのかな?」
「そうかもね。あと、人形はないけど、楽譜が額縁入りで飾られてる部屋もあった。一階のほう。しかも楽譜の紙、すごくきれいで真っ白だったよ。植物性の紙で」
「へえ、珍しいね。楽譜コレクターなのか紙コレクターなのかわからないけど、けっこうな収集趣味をお持ちだね、この家の人」
 ようやく、トカゲが炎の中からのそのそと姿をあらわした。ふわぁ、と大きな欠伸をする。それを見ていた旅人も、つられて、ふわぁ、と欠伸をする。
「人形じゃなくて人体模型や骨格標本が飾られた部屋もあったな。なにかの実験室みたいな。こんな部屋があるなんて、へんだなぁ、怖いなぁって、詳しく見てみようと部屋の棚に手をかけた瞬間、背後でひたひたー、ひたひたーっていう足音が」
「ゴクリ」
「それで、思わず振り向いたらそこに」
「ギャー」
「あのお婆さんが」
「……って、なんだ、おばあちゃんか」
「厠はあっちだよって教えてくれた」
「いい人だ」
「うん、おかげでそれ以上迷わずにすんだ」
 言葉とは裏腹に、旅人はすこし残念そうだった。もっと探索を続けたかったと言いたげだ。
「で、お婆さんからの伝言。『宿代は気にしなくていい』だって」
「太っ腹だね」
「手伝いも断られてしまった」
「見た目が頼りないもんね」
「薪割りぐらいはできるのに……」
 旅人はむくれ顔になって、水差しの首をコン、とはじく。
「伝言はもう一つ。『暖炉の上の時計が七時四〇分を指したら、玄関ホールまで下りておいで。そこからは、べつの者が食堂までおまえさんたちを案内するよ。あたしは奥様をお連れしないといけないし、準備で手が離せなくなるからね』……だってさ」
「べつの者……?」
 鱗の灰を床に振り落としていたトカゲは、ぐるりと首をひねった。
「おばあちゃんと奥様のほかに、館にもう一人いるってこと? そんな気配はないけどなぁ……」
「人間じゃないのかもしれない」
 コップに水を注ぎながら、真顔で旅人は言った。
「よくあるパターンで妖精とか人食い魔物とか。それこそ魔女とか」
「うーん、魔の域に属するやつらが、おいらの妖精センサーに引っかからないはずはないんだけどなぁ……」
 トカゲは首を伸ばし、チロチロと舌を出し入れした。空気中の匂いをたしかめているときのしぐさだ。
「お、晩ご飯は肉入りのシチューだね。焼いたプリンもあるぞ」
「それは楽しみ。そういえば、この森じたいに魔女の気配を感じたことは?」
「ないない。思ってもみなかったもん、この森に魔女が関わってるなんてさ。〈魔女の森〉だなんて、今日はじめて聞いたよ?」
 ローテーブルに這い上がったトカゲは、黒い鱗を一枚くわえていた。ものをくわえたままでも喋れるのは、喉ではなく周囲の空気を震わせて発声する、妖精ならではの技だ。
「まあ、かつて魔女がいたとしても、〝古の魔女〟って言われるぐらいだから、もう死んでるだろうね」
「でも、魔力の痕跡をまったく遺さず、死後も森をまるごと閉ざし続けるって、いくらなんでもムチャすぎない? そんなことできるのかなぁ?」
 首をかしげるトカゲの口から、旅人は鱗を受け取る。
「考えられるケースとしては、魔女に見立てられたなんらかの大きな自然現象とか?」
 水を張ったコップにひらりと鱗を落とす。
「いちおう、お婆さんに森の成り立ちについて聞いてみたけど、大昔に魔女が創った、以上のことは言ってくれなかったなぁ。せめてどのように創られたかがわかれば、糸口を掴めるのに」
「奥様とやらがなにか知ってるといいね」
「そういえばティオ、君の勘は当たりだったよ。お婆さんに聞いたら、近くにカントという町があるってさ。年中にぎやかなところらしい。森と魔女についての情報も、町でなら期待できるかもね」
 小さく笑って、旅人は鱗入りの水をいっきに飲み干した。ふう、と息をついて親指で唇を拭う。それをじっと見上げていたトカゲは、
「ごめんな、相棒」
 ふいにしょんぼりと視線を落とした。
「おいらが成り損ないのポンコツ妖精じゃなきゃ、人の気配も魔女の気配もはっきりわかるし、おばあちゃんたちの思惑もわかるから鱗なんか飲まなくたっていいし、風に乗って町を探しに行くこともできるし、そもそも簡単にこの森から抜け出せたのに」
「ポンコツはお互いさまだし、ティオが気にすることじゃない」
 旅人はローテーブルからトカゲをひょいとつまみ上げ、肩に乗せた。
「害意を察してくれるだけでじゅうぶんありがたい。ティオには何度も命を救われている。これからも頼む」
 トカゲは目を細め、へへっと小さく笑った。照れたようでもあり、哀しみをごまかしているようでもあった。
「さて、そろそろ時間かな?」
 わざとらしく明るい声をあげ、旅人は腰のポケットから小さな時計を取り出した。古びた真鍮製で、そろいの鈍色をした鎖がついており、腰のベルトにつながっている。旅人はその鎖付きの時計を暖炉の上の置き時計と何度か見比べて、しばらく手元のネジをいじってから、
「よし、時間だ」
 満足げにうなずいた。
「まーたネジ巻くの忘れてたの? その時計、持ち腐れてるんじゃないの?」
 からかうトカゲを肩に乗せたまま、ランタンを片手に旅人は客室を出た。「なにがいるかわからない。慎重に行くよ」とささやき、抜き足差し足で階段下の玄関ホールに向かう。
 そして、呆然とつぶやいた。
「……べつの者って」
「なーんだ、これのこと?」
 ほの明るいホールの真ん中で旅人たちを待ちかまえていたのは、等身大の人形だった。いや、待ちかまえてはいなかった。旅人たちに背を向けて立っていた。
 足元まで覆う長い紺のワンピースに、白いエプロンを纏い、白いキャップを被っている。後ろ姿だけでも、メイドを模した人形だとわかる。背丈は旅人よりもすこし高い。
 正面に回ると、メイド人形は空っぽの木皿をうやうやしく捧げ持っていた。
「たしかに人間じゃなかったね。人の気配も魔力の気配もないわけだよ」
 ほっとした声音でトカゲ。
「あのお婆さんもややこしいことを言ってくれる」
 旅人も肩の力を抜いた様子で、ランタンをかざしてまじまじと人形を観察した。メイドの顔は彫りも着色も浅く、申しわけ程度の作りだ。
「服以外は木製で、金属も混ざってるね。木の匂いがまだ新しいから、彫りたてほやほやかな?」
 チロチロと舌を伸ばして、トカゲが言う。
「木と金属ということは、からくり人形か。こんなに大きなものははじめて見たな」
「で、これをどうしたら食堂まで案内してもらえるの?」
「たぶん、こうするんだろう」
 旅人は肩からトカゲをつまみ上げると、人形の木皿に載せた。
 木皿がトカゲの重みで下がり、人形の中でカタン、と小さな音がした。同時に、人形が動き出した。カタカタと小刻みに揺れながら、絨毯の上を滑るように進む。ついでのように爪先がスカートから見え隠れして、すたすたと歩いているように見えなくもない。
「おお、すごい」
 旅人がメイドを追って歩き出す。
「なんだかこのまま料理に出されそう……」
 木皿の上でトカゲがぼやいた。
「ティオは鱗が固くて焦げ臭いから、料理されても美味しくないだろうな」
「もう鱗あげないぞ」
 トカゲが丸くなって拗ねた。と思いきや、がばりと身を起こし、
「このまま真っすぐ行くと、おいらごと壁にぶつかるんじゃ……」
「いや、内部の歯車の音が変わった」
「あっ、すごい、ちゃんと右折した」
「ゼンマイを二段階で使ってるのかな?」
「あっ、止まった」
「ということは、この扉?」
 旅人とトカゲは、メイド人形が立ち止まった突き当たりの扉を見上げた。たしかに、豪邸の食堂にふさわしい、大きくて頑丈そうな二枚扉だ。
「この先に奥様がいるみたいだね。気配があるよ」
 トカゲが報告する。旅人はごくりと喉を鳴らし、扉に手をかけた。
「よし、準備はいいか、ティオ」
「おうよ、相棒」

NEXT →


↑ 誤字脱字報告大歓迎!

inserted by FC2 system