『大河と霧と英雄の船』  天月翔子 ●はじめに ・本文6p〜273pのうち、6p〜56pまでの内容です。 ・ふりがなは《》で表示しています。特殊読みのみ、ふってあります。 ・smoopy(http://site-clue.statice.jp/soft_smoopy.php)とか使って読むと幸せになれるかも -------------------------以下本文------------------------- ■  プロローグ 「じゃあ、こんどはオリオンの足元を見てごらん。ここから大きく蛇行……えーと、うねうねって曲がりくねって、こう、西の果てまで続いてる、このながーい星の道が、エリダヌス座だ」 「え、り、だ」 「そう、エリダは母さんの名前だね。エリダヌス座は、川の星座だ」 「かわ……ぼくのなまえだね!」 「そうさ、タイガ。君の名前は母さんからもらったんだ。川でおそろいだよ」 「だけどぼく、ほんもののかわをみたことがないよ。どこにあるの? みてみたいな」 「ああ、とても悲しい報せだタイガ、われらが母なる地球にもはや川など存在しない! 父さんもアーカイブでしか見たことがないんだ。だけどね、タイガ、空にはまだ残ってるんだ。君の名前のように、大きな大きな川がね」 「かわって、みずのみちのことだよね? おそらにも、みずがあるの?」 「エリダヌス座は、水じゃなくて星でできた川なんだよ」 「おほしさまのみちなの? すごいなあ!」 「ほんものを見てみたい?」 「うん!」 「じゃあ、タイガはパイロットになればいい」 「ぱいろーと?」 「ドームの外に出るお仕事だよ」 「そと?」 「ああ、外の世界を船で飛ぶんだ。こんな小さな投影機のまやかしじゃなくて、ほんものの、果てしない星空の中をね」 「ほんもののおほしさま……」 「大昔の人たちは、船で旅をするときは、明るい星や星座を目印にしたものさ」 「めじるしに?」 「そう。だからタイガがパイロットになってドームの外に出たら、きっと星が君の道標になってくれるよ。母さんの星座も、いっしょにね」 ■ 第一章 研修船アルゴ号 1 トリトランサー 「パイロットになってドームの外に出たら、きっと星が道標になってくれるよ」  なーんて夢のある話を語ってくれた父に、嘘つき、と心の中で毒づきながら十五歳のタイガは研修船の操縦桿を握っている。あれから十二年、父の話をひたすら信じてここまでがんばってきたのに、ドームの外に広がる空には星のひとつもありゃしない。  コックピットのスクリーンに映る景色は陰鬱そのものだ。重く淀んだ闇色の天から〈死の雪〉と呼ばれる白いものが常にちらちら舞い落ちて、ドームよりもはるか下の〈奈落〉へと吸いこまれていく。有害な死の雪に触れれば人間のやわな肌はたやすくかぶれてしまう。かぶれるだけならまだよくて、たくさん浴びると体中が溶けて苦しんだすえに死んでしまうそうだ。  そもそも大気自体が人体に有毒で、吸いこむだけで死んでしまう。気温もマイナス五十度以下の極寒の世界だから、とても外になんて出られたもんじゃない。 「タイガくん、あとは自動操縦で大丈夫だよ」  左から飛んできた穏やかな声に、タイガは慌ててスイッチを切り替えた。  副操縦席でタイガを見守っていたアルフレッド・スターン船長は、垂れた目尻にしわを寄せて微笑し、うなずいた。茶色の優しいまなざしを持つ彼は、船長という肩書きにふさわしく、ゆったりとした体と奥行きの深い人柄を持っている。働き盛りの三十六歳で、三十にして不惑≠竍最弱無敵∞影なしアルフ∞天然ゴースト≠ニいう奇妙な二つ名をいくつも持っている名物船長だ。 「タイガくんは船を自分で動かすのが好きなのよ、ね」  右隣のカリーナ・ルイーズ・チカロフ通信士が、気さくな笑みをタイガに向けてくれた。彼女はいつもにこにこしていて、気配りもこまやかで、やわらかそうでいい香りがするすてきな女性だ。肩の上で丁寧に切りそろえられた金髪が、豊かに波打ちながら頬をふんわり縁取っている。優しそうに細められた青い瞳と目が合うと、タイガの胸は甘いうずきとともに高鳴ってしまう。タイガが二歳のときに亡くなったという母の写真に、どことなく似ているせいだろうか。とはいってもカリーナはタイガの母親という年齢ではなく、まだ二十五歳で、通信士の中ではかなりの若手だ。マドンナ∞女神さま≠ニいうありきたりな二つ名がこっそりついて回っているのは、同僚のほとんどが男性だからだろう。 「タイガくんなら、出発地から着地までぜんぶひとりで手動操縦でもいけるんじゃないかしら」 「カリーナさん、タイガくんをそそのかさないでください、その気になられたら困ります」  タイガが口を開くよりも先に、後方の座席からロン・グゥ安全監査士が異をとなえた。バックミラーごしに見る細い面には、いつもの苦笑がやんわりと浮かんでいる。彼もカリーナ同様、二十三歳とすこぶる若い。短い黒髪に切れ長の黒い目を持つ生粋のチャン族で、童顔が多い種族の特徴どおり、実年齢よりもさらに若く見える。あだ名はフューシップの生まれ変わり≠セの歩くシップ事典≠セのフューシップの部品でできたサイボーグ≠セの、船に関する彼の知識量を讃えるものばかりだ。たまに見かけの二倍≠ニ呼ぶ人もいるが、なにが二倍なのかはタイガにはわからない。 「全手動操縦か。ヘンリーに続く三人目の記録になるね。やってみるかい?」  アルフレッド船長までもが面白そうにタイガをそそのかしてくる。 「君はヘンリーに似てるところがあるからね。確固たる技術力、高い計算力、抜群の集中力。三拍子そろったトリトランサーなんて、なかなかいないよ」 「そんなすごい人といっしょにしないでください……」  ロン安全監査士の視線を背中に感じながら、タイガはとんでもないとばかりにかぶりを振った。今回の航行時間はおよそ五時間、いくら集中力があるからといって、トリトランサーの免許も持っていないようなひよっこ研修士が「じゃあやってみます」などとかるく言えるような楽な飛行じゃない。  だけどもし、最初から最後まで自分の手で船を動かし、闇の世界に果敢に立ち向かうことができたなら……そう想像しただけで、タイガの胸はカリーナの笑顔を見たときよりも高鳴った。  だがその昂揚はすぐに、厳かな声にぴたりと沈められてしまう。 「タイガくん、安定飛行の確認はまだかね? 操縦中の物思いは命取りじゃよ」 「あっ、はい。自律飛行への移行を完了、機体の安定を確認しました」  タイガは慌てて周囲の計器をたしかめ、宣言した。  操縦席の真後ろに守護霊のごとく貼り付いているジェイソン・ウェブスター教官には、タイガがどれくらい上の空かなんて簡単に読み取れてしまうらしい。白いふわふわのひげの中にいつも穏やかな笑みをたたえているジェイソン教官は、パイロット養成所の中では親しみやすいと一番人気だ。一方で、なかなかどうして鬼のように厳しい教師でもある。細かいところまで鋭く目を光らせる眼力と、だれにでもつきっきりでみっちり教えこむ粘り強さを兼ねそえているから、生徒たちは気が抜けない。最終的には否が応でも操縦技術が身についてしまうので、よけいに人気教官なのだろう。たとえ厳しくとも、一流のトリトランサーを目指すタイガは師に恵まれたことをありがたく思っている。ちなみに彼を形容する二つ名はホワイトマフィア∞触ってみれば祟りなし≠ネどさまざまある。敬意をこめて老師《ラオシー》≠ニ呼ぶ卒業生たちも多い。 「技術があるからとおごってはならんぞ。トリトランサーにもっとも必要とされているのは、預かった荷物をつぎの基地にちゃんと届けるための責任感じゃよ」 「はい」  タイガは師の言葉をしっかりと胸に刻みつけた。  いま、この研修船アルゴ号の狭い操縦室には、一人の子供と四人の大人が詰まっている。コックピットのまるいスクリーンと向かい合う三つの席に、左からアルフレッド船長、タイガ研修士、カリーナ通信士が座っている。そしてタイガの背後には、椅子にも座らずに健脚を披露している六十八歳のジェイソン教官が控えている。その全員を見渡せる最後方の席に、ロン安全監査士。タイガを除いた全員がトリトランサーの免許を持ち、いざというときは自分が操縦桿を握ろうと待ちかまえている。  トリトランサーとは、世界連合統治局統合本部(略してHUGOGC《フゴーク》)の公式定期輸送船のパイロットのことだ。フューシップ≠ニ呼ばれる大きな紡錘形の船を操り、地球上に点在する三つのドームのあいだを飛び回ってさまざまな物品や人員を運ぶ。いわば世界の動脈だ。この世にたった八機しか存在しないフューシップの操縦桿を握れるのは、狭き門をくぐり抜けたわずかな精鋭のみ。しかも、トリトランサーは〈HUGOGC《フゴーク》〉直属の正仕官としてあつかわれる。つまり、花形のエリート職だ。それゆえに、トリトランサーは多くの少年少女たちの憧れの的になっている。  タイガもそうした子供たちのひとりだった。もちろん、憧れているだけではトリトランサーにはなれない。まず、統治局が運営するパイロット養成所に入らなければならない。そして、その中でとくに成績が優秀な者だけに、トリトランサー試験の受験資格が与えられる。人生でたった一度きりしか受けられない、ひじょうに難しい実技試験だ。その試験に合格して初めて、トリトランサーを名のることができるのだ。  夢を追って九歳で養成所に入学し、三つの筆記試験をそれなりに優秀な成績で突破したタイガには、いよいよ七日後に運命の実技試験が迫っていた。今日研修船アルゴ号に乗っているのは、試験のためにジェイソン教官が特別に組んでくれたカリキュラムのおかげだ。タイガがアルゴ号に乗るのはこれで二度めだ。養成所の生徒たちでもめったに触れることができないほんものの操縦桿をこうして握ることができるタイガの胸はいま、誇りと喜びでいっぱいだった。  だが実際は大きな失望もタイガの心に入りこみ、暗澹たる影を落としているのだった。 「アルカディアベースの光、もう見えなくなっちゃったわね」  スクリーンで左舷下の映像を確認し、カリーナが寂しそうにつぶやいた。  トリトランサーたちが見つめるスクリーンには、冥府のように陰鬱な闇の世界が広がっている。フューシップのヘッドライトが放つ強力な光芒は、進路方向にかろうじて死の雪を見いだすだけだ。はるか上空で生成された死の雪は、さまようような動きで奈落の底へ落ちてゆく。こんどは奈落のどこかで〈死の霧〉となって立ちのぼり、上空でふたたび死の雪となってまた舞い落ちる。なんと憂鬱な無彩色の循環だろう。ドームの外には黒か白しかないのだ。光は放たれるそばから闇に呑みこまれ、レーダーがなければ右も左も他船の存在すらもわからない、果てなき暗黒の世界だ。  星が道標になるどころかひとつたりともタイガの前に姿をあらわさないのは、地球全体を覆っているどす黒い粒子のせいだ。初めての実習の日、この暗鬱なる景色を目にしたタイガは深くふかく失望した。いくら授業で「ドームの外はただ闇が広がっているだけ」と教えられたって、実際に外に出るまでは、タイガには信じられなかった。プラスチック製の古ぼけた天球儀を回しながら、あるいは投影機が天井に映し出した星空を眺めながら、父はよく外の世界≠フ話を聞かせてくれた。そのたびに幼いタイガはトリトランサーの夢へとかき立てられた。それなのに、夜ごと想像していたきらめく外界がじつはとっくに失われた過去の幻影だったなんて、そんな結末はあんまりだ。  有害な外気と闇を恐れてドームに引きこもった人類の中では、トリトランサーは数少ないドーム外経験者だ。ドームに外≠ェあるということすら知らない人だっている。生まれてから死ぬまでドームの庇護下で暮らす人たちは、この空虚な風景にどんな思いを抱くのだろう。やはり失望するのだろうか。それとも、どうでもいいんだろうか。  ふつうの人はめったにドームから出てこないが、やむをえぬ事情でほかのドームへ移動する人たちもいる。いつかそんな乗客のひとりをつかまえてこのスクリーンの景色を見てもらい、感想を聞いてみたい、とタイガが思っていたら、折しもひとりの乗客がドアをこじ開けて操縦室へ入ってくるのをセキュリティカメラの映像ごしに見つけた。  タイガは混乱した。  今日は客など乗っけていただろうか? ―いや、これは研修船だ、荷物はいくらか積んでいても、よぶんな客などひとりも乗せていないはず。ということは、あの青年は招かれざる客、完全なる部外者だ。そんな人間が、このロックのかかった操縦室にわざわざ入ってくる理由はかぎられている。きっと、アルゴ号を乗っ取りに来た悪いやつに違いない。タイガはセキュリティカメラの青年から目を離さずに、操縦席の下に収納されているレーザー銃へ手を伸ばした。  その動きを制するように、侵入者はひょいと片手を上げた。  その手に子猫がぶら下がっていた。 「おっす。こいつ船内で迷子になってたぜ。だれだよ仕事先にペット持ちこみしたやつ」  カリーナとロンとアルフレッドが、なぜか同時に盛大なため息をついた。 2 霧に包まれた男 「でもよく考えたらさ、ペットの飼育許可もらえそうなのってこのメンツじゃ老師ぐらいだよな。じゃあ、こいつどこから来たんだ? ロン、分析任せた。あ、カリーナさんは今日もあいかわらずお美しいっすね。アルフさんの影の薄さもお変わりなくてけっこう」 「ミストくんもあいかわらず軽薄でけっこうなことね」  ぺらぺらと矢継ぎ早に喋る侵入者へ、カリーナがうっとうしそうに応じる。  カリーナたちの知り合いということは、この不審者は見かけによらず安全な不審者なのだろうか。タイガは銃に触れていた手をとりあえずひっこめた。  子猫を押しつけられたロンは腰のポーチから携帯用のスキャナーを取り出し、もう一度深いため息をついた。 「搭乗時に悪寒がしたので、ミストくんがまたかってに乗りこんでいる気はしましたが……今日はただの点検飛行じゃなくてタイガくんの研修飛行なんです。じゃましないでくださいね」  スキャナーで子猫の体を調べつつ、三度めのため息。子猫はおとなしく、ロンにあちこちいじられるがままになっている。 「タイガー? へぇ、このちっこいやつの名前? 強そうじゃん」  ひょいひょいと長い足を伸ばして、男は操縦席の横に回りこんできた。そして、タイガの顔をのぞきこんだとたん、腹を抱えて笑いだした。 「タイガーってツラじゃねぇな!」 「タ・イ・ガ! 虎じゃないよ、ヤン語で川っていう意味だよ!」  タイガは憤然と抗議した。 「リバーだぁ? ああ、おまえヤン族か。へぇ、めずらしいな。ハーフか?」 「おや、ミストくんが知らないとは意外だね。彼はタイガ・ヤギリくん。プロフェッサー・ヤギリの一人息子だよ」  アルフレッド船長が横から解説したとたん、 「プロフェッサー・ヤギリの!?」  ミストと呼ばれた男は目をむいた。 「それって、あのリザレクター≠フことだろ? 万能細胞の創造やら成長操作やら脳波での遠隔操作やらのロストテクノロジーをどんどん復活させてるすっげぇ人だろ? ひょー、知らなかったぜ、あんな子供みてぇな顔してこんな大きいガキがいたのか。まあ、三十八ならとうぜんか。ヤン族は童顔だからなぁ」 「父さんに会ったことがあるの?」  タイガは複雑な気分に陥りながら尋ねた。父の名を耳にした者は、だいたいみんなミストのような反応を示す。生体研究者としての父の仕事が多くの人に知られているのはうれしいが、父の名前にばかり気をとられて、だれもタイガを見ようとしない。  パイロット養成所にとんとん拍子で入れたのも、ジェイソン教官に気に入られているのも、父の名前のせいではないかと、どうしても疑ってしまう。いまこうしてアルゴ号の操縦桿を握っていられるのはすべて父の影響力のおかげで、自分の実力なんかこれっぽちも作用してないんじゃないかと……。 「俺、生体管理リングの大規模改良が話題になったときに、取材で〈エデン〉の生体研究所に行ったことあるんだぜ。そんときおまえの親父さんに案内してもらったんだよ」  ミストは得意げに胸を張った。 「たしかにおまえ、プロフェッサーに似てるよ、鼻の形とかさ。でも、目は青いんだな。母親譲りか?」  タイガの頭のてっぺんからつま先まで、ミストは無遠慮にじろじろと眺めてきた。黒い髪と黄色がかった肌を持つタイガは、ハーフではあるがヤン族の特徴を色濃くあらわしている。対するミストは典型的なエン族らしく、金髪緑眼で肌の色も薄い。年は二十歳前後だろうか。じっくり見れば端整とも品があるともいえる顔立ちなのに、みじんもそんな雰囲気を匂わせないのは、いたずらっ子のようにきらきら輝く目と楽しげに曲がった口元のせいだろう。かっこうはラフなクリーム色の長袖シャツと黒いハーフボトムで、トリトランサーの青い制服に囲まれると浮きまくって見える。  タイガの目はふとミストの腰に吸い寄せられた。そこには銀色のベルトで白いレーザー銃が吊り提げられていた。護身のために武器を携帯する人はめずらしくない。タイガも電磁ナイフをベルトにさしている。だが、あつかいやすいナイフではなく手入れや修得が難しい銃を提げている人はちょっとめずらしい。しかも、すこしよれた彼の服に似合わないぐらい銃身がぴかぴかに磨かれていて、まるでミストの体の重心がそこにあるかのように目立っている。 「おまえ十二歳……じゃないよなさすがに。へぇ、十五? それでもずいぶん若いな。こんなチビに試験を受けさせるなんて、トリトランサーは人材不足か?」 「人材不足もあるけど、タイガくんはジェイソン老師のお墨付きよ」 「なり手が少ないのはいつものことじゃ、外界に出たがる若者は少ない。多くが実習で怖じ気づく。タイガくんは外の闇を恐れぬし、熱意もある。だれかさんと違って操縦も丁寧で正確じゃ」 「へぇ、老師がそう言うんなら先が楽しみっすね。いまのうちに独占インタビューでもしておくかな。よろしく、新米船長さん」  ひょいとさしだされた手を、タイガは反射的に握り返してしまった。すっかり相手のペースに乗せられている。 「俺はミスト。フリーのライター。面白そうなネタがあったらここに連絡頼むぜ」  手の中にはちゃっかり名刺チップが残されていた。呆然としてそれを眺めるタイガに、カリーナが苦笑し、 「タイガくん、こいつの横柄さやずうずうしさに呆気にとられるのはよーくわかるけど、操縦中は気を散らしちゃだめよ」  いまさらな忠言をくれた。 「俺たちの命を背負ってんだ、よろしく頼むぜ、新米船長さん」  タイガの集中を削いでいる元凶はへらへらと笑って、カリーナににらまれた。その視線をひょいとかわすようなしぐさで、一歩後ろへ下がる。 「で、そのチビ猫はだれのだったんだよ、ロン」  下がるついでにミストはロンへ振り向いた。  子猫はあいかわらずおとなしく、ロンの膝の上でまるくなっていた。虎縞の毛皮を撫でられ、気持ちよさそうに目を細めている。  ロンはふっと短く息を吐いた。 「結論から述べますと、この猫は存在しない猫です」 「えっ」 「まさか……!」  操縦室がざわめく。 「識別チップが体のどこにも埋めこまれていないので、データベースにアクセスしようがありません。この猫は正真正銘、野良猫です」 「野良ですって!?」  カリーナが声をうわずらせて驚くのももっともだ。すべての生き物、とくに愛玩用の動物たちは、各ドームの統治局によって繁殖が管理されている。野良猫など存在するはずがない。タイガもこれ以上ないほど驚いていた。野良という言葉はかろうじて知っていたが、実際に使われる場面に遭遇しようとは。 「生態管理委員会に通報する必要がありますね」  ロンが通信士のカリーナに目配せをする。その膝から、ミストがひょいと子猫をつまみ上げた。 「そんなことしなくってもよ、野良に生まれたんなら野良のままでもいいんじゃね?」 「おや、親近感ですか、ミストくん」 「しかしね、これは決まりなんだよ、ミストくん。この猫をきっかけに野良猫が増えたり、病が流行ったりしては困る。いまの合理的なペット制度も崩れてしまうよ。だから、気の毒だけどこの猫は処分しなくちゃいけない」  アルフレッド船長も、ジェイソン教官に目配せしながらロンを支持する。 「んなこと言ってもさ、俺がきっかけで人口が増えたり病気が流行ったりなんてこと、なかっただろ?」 「人口はこれから増えるおそれがありますけどね……。人間と猫では話がべつです」 「ミストさんが……どういうことなんですか?」  タイガは会話の中身がよく見えず、ロンに助けを求めた。  ロンはすぐには答えず、ミストをちらりと見た。ミストはにやりと笑い、ぶんぶんと調子よくうなずいた。ロンは続いてジェイソン教官を見た。先ほどから野良猫の存在にも驚かずに泰然としていた教官は、微笑しながらゆっくりとうなずきを返した。ロンも心得たとばかりにしっかりうなずき、ようやくタイガに向き直ってくれた。 「これはアルゴ号の乗組員だけの秘密ですよ」ロンはそう前置きした。「じつは、ミストくんにもないんですよ」 「ない……って、まさか」 「そのまさかです。識別チップがないんです。だからどうやっても、アルゴ号搭乗拒否者リストやコックピットコントロールのブラックリストに入れられないんです」ロンが頭を抱える。「パスコード式にしてもすぐ解除されるし、彼の侵入を阻むにはどうしたらいいんでしょう……!」  かってにアルゴ号に出入りするミストの存在は、職務に忠実な安全監査士を大いに苦悩させているらしい。 「なんだよチビ、ゴーストでも見たような顔だな」  当の本人はへらへらと笑っている。タイガは驚きのあまり言葉を失っていた。野良猫のときよりももっとびっくりしていた。識別チップを持たない人間が存在するなんて、タイガの常識では……いや、この世界の常識では考えられない。 「知りてぇか、チビ? アルゴ号の怪談」 「怪談……?」 「このおんぼろアルゴ号にはな、どことも知れぬ異次元空間につながってる場所があるのさ。だからこうしてときどき、識別チップを持たない生き物が紛れこむんだ。そいつ自身、自分がどこからやってきたのかなんてわからねぇ」 「この子猫でまだ二例めだけどね」アルフレッドが口を挟んだ。 「まさか……」 「おっ、察しがいいねぇチビタイガーくん」 「ミストくんが発見されたのも、この船じゃった」それまでみんなを見守っているだけだったジェイソンが、ようやく口を開いた。「まだ二歳ぐらいの、ほんの小さな子供でな。貨物室で泣いていたから、はじめは迷子かと思ったんじゃ。むろん、迷子には違いないがの」 「そんなことって、あるんですか……」 「実際にあったのだからしかたないのう」 「統治局に知らせたりは……」 「無意味だと思ったのでの」  教官はきっぱりと言った。 「それで、老師がこっそり彼を引き取ったんだよ。そこから先の話がまたふしぎでね。老師がこっそり識別チップを手に入れて、身内の医者に頼んでこっそり埋めこみ手術をしてもらったんだよ。でも、どこに埋めてもすぐ体外に排出されてしまうらしくてね」  アルフレッドの説明に、ジェイソンが大きくうなずく。 「じゃあ、ミストさんはどうやって生活してるの?」  タイガは思わず自分の左腕に触れていた。上腕部には生体管理リングがかっちりとはまっている。識別チップはその奥に埋めこまれているのだ。識別チップがなければさまざまな公共サービスが受けられないし、日常生活の料金の支払いさえできない。識別チップを持たずにこの世界で生きていくことは不可能だ。  ミストの腕にも、しっかりと生体管理リングはあった。だから見た目はふつうの人となにも変わらない。  タイガの視線を受け止めて、ミストが笑う。 「答えは簡単、携帯してるのさ」  彼は胸元に提げていたカードケースから一枚のカードを抜き出して、ひらひらと振った。その独特の光沢は、だれもが持っている個人用IDカードのものだ。 「このカードに老師からもらったチップが挟んであるのさ。で、こいつをここに入れてやると、あらふしぎ!」  ミストが胸元のケースにカードをしまいこむ。それはなんの変哲もないアンチスキャナーケースだ。タイガの身分や生い立ちを記録したIDカードも、通常はこのケースにしまわれている。本来、悪意あるスキミングからカード情報を保護するためのケースなのだ。  それが、人ひとりぶんの存在ごと覆い隠してしまうなんて……。  ミストはケースを指ではじいて満足そうに笑った。 「これで俺はそこらの認証機にとっちゃゴースト≠ノなるってわけ」  ……それって、犯罪じゃないだろうか? タイガは不安に思ったが、周囲の大人たちは呆れと苦笑を浮かべこそすれ、だれもミストを咎めようとしない。 「ま、識別チップがあってもなくても俺は俺さ。実際にこうして生きてんだからな」  指先でちょいちょいと子猫を撫でながら、ミストは言う。 「だからよ、おまえも人間の都合なんかに振り回されんじゃねーぞ、タイガー」  子猫はさっきからずっとおとなしいが、ミストに撫でられても笑顔で話しかけられても、そっぽを向いてつーんとしている。 「タイガー……って」  ミストは子猫にかってにタイガーという名前をつけたらしい。黒いしましまの毛色を持つ猫には、ありきたりだがぴったりの名前だ。だが、そこはかとない嫌みを感じるのはタイガの気のせいだろうか。……ミストがこちらを見ていやーな笑みを浮かべた。 「おまえもせいぜい名前負けしねぇようにがんばれよ、チビタイガー」 「タ・イ・ガだってば!」  やっぱりわざとだ。なんで出会ったばかりの犯罪者(タイガ推測)にこんなにからかわれなきゃいけないんだろう。それに、タイガよりも子猫のほうがずっとチビだ。ぎりぎり平均的な身長に育っているタイガは、「チビ」と呼ばれることが釈然としない。 「タイガーもかっこいいけど、俺の名前もかっこいいよな。まさしく霧《ミスト》に包まれた男って感じでさ」 「どちらかといえば屑《ダスト》でしょ」横からカリーナが辛辣な口を挟んだ。 「あっ、ひどいですよカリーナさん。アルゴ号の客《ゲスト》に向かって」 「客《ゲスト》ですって? アルゴ号を自分の巣《ネスト》にしてるのに?」 「客《ゲスト》なら相応の礼節を守っていただきたいものですね。これ以上タイガくんの研修のじゃまをするなら、それこそ奈落の屑《ダスト》にしますよ」  頭痛でもするのか、片手でこめかみをおさえながらロン。その表情から、いつもの苦笑が消えている。 「げ、そう怒るなって、ロン。悪かったよ。じゃあ、用はすんだし俺はひっこむぜ」  言葉と同時に踵を返すと、無断侵入罪の被疑者はあっさり操縦室から出ていった。  子猫もちゃっかり肩に乗せて連れ出している。去りぎわに一言、「通報する必要はねぇからなー」と念を押すことも忘れない。  ひらひらと揺れる手がドアのむこうに消えていくのを見ながら、ロンがまた大きなため息をついた。 「どうします、老師。猫のことですが」 「うむ……」  過去にミストのことを通報しなかったジェイソンは、めずらしく渋い表情を見せた。 「通報はせねばならんのう」 「では……」  ヘッドホンをつけたカリーナが通信用マイクを口元に持ってくる。 「いや、カリーナくん、数日待ってもらえんかね」 「かまいませんけど……どうしてですか?」 「本部が猫のことを知れば、アルゴ号に徹底した調査が入るじゃろう。そうなると、アルゴ号はとうぶん飛べんじゃろう」 「ああ、なるほど」察しのいいアルフレッド船長がすぐにうなずいた。「タイガくんやほかの子たちの研修プログラムが終わるまでは、待ったほうがいいということですね。どんな事情であれ、試験は待ってくれませんからね」 「わかってくれるかね、アルフレッドくん」 「もちろんです。ミストくんの秘密が本部に知られてもやっかいですからね」 「そういう理由なら、私も秘密にしておきますわ」  カリーナが通信用マイクを下げた。 「わかりました。僕も秘密にします」  ロンもカリーナを横目で見てうなずいた。 「すまんのう、カリーナくん、ロンくん」  ジェイソンがほっとしたように笑う。  タイガは彼らのやりとりにひそかに感動していた。養成所のジェイソン教官だけでなく、サポートメンバーであるアルフレッド船長やロンやカリーナまでも、タイガやほかの生徒たちのことをこんなにも考えてくれているとは。  喜びで胸を熱くしながら、タイガも宣言した。 「先生、僕もだれにも言いません」  ミストと野良猫。アルゴ号の船員たちが持つ秘密の輪に、自分も加わった。その密やかな連帯感が、まるで自分もトリトランサーたちの一員として迎えられたようで、タイガの心は小さな幸せにくすぐられていた。 3 闇と楽園 「さあ、もうすぐエデンベースだよ。タイガくん、気をひきしめて」  フューシップの前方を映すスクリーンに〈エデン〉の光が小さくまたたきはじめたころ、アルフレッド船長が穏やかな声でタイガをうながした。 「はい!」  スイッチを切り替え、アルゴ号のコントロールを機械から自分の手中に取り戻して、タイガは背筋を伸ばした。  ミストはあれから顔を出すことはなかったが、操縦室はミストの話題で持ちきりだった。  アルフレッド船長が、いかにミストが傍若無人かというエピソードを持ち出して、 「まったく、老師は偉大ですよ、あのミストくんの手綱をとっているんだから」  と水を向ければ、 「ほっほ、それは誤解じゃ。子供のころから、わしの言うことなんぞちーっとも聞かんぞ」  ジェイソン教官が楽しげに体を揺する。 「こうやって噂すると本人が来ちゃうのがいつものパターンだけど、今日はあれきり来ないわね。タイガくんに遠慮してくれてるなら助かるけど」  カリーナが首をかしげれば、 「きっと適当なところで寝てるんだよ。目の下にちょっと隈があったからね」  アルフレッドが笑い、 「ライターは寝不足が仕事だ、なんていつも言ってましたからね」  機内点検から戻ってきたばかりのロンが相槌を打つ。 「ライター業、野垂れ死にもせずによく続いてるわよね。意外だわ」 「ミストくんはよけいなことにも目端が利くからねぇ。なかなかぴったりだと思うよ」 「神出鬼没ですしね」 「神出鬼没といえば、アルゴ号の怪談というのも、あながちアリかもしれないねぇ。ロンくんは点検時になにかおかしなところは見つけなかったのかい?」  船長が安全監査士に興味津々の顔で尋ねる。 「今のところはなにも……」ロンは真面目な顔で首を振る。「ただ、アルゴ号は現役のフューシップの中では飛び抜けて古い型ですからね。旧式の反重力システムのせいで、なにかが起こっているという可能性はあります」 「なるほど、反重力が原因になりうるんだね」 「はい。空間をゆがめますから、ふとした拍子にワームホールが開く可能性がないとは言い切れません。しかし、過去にそういった報告はありませんし、つながっているとしてもいったいどこにつながっているのか、見当もつきませんね」 「それって、ちょっと夢のある話じゃない?」カリーナが瞳を輝かせた。「識別チップを持たない人たちの楽園がどこかにあるかもしれないってことでしょ?」 「楽園かどうかはわからないけどねぇ」 「ミストくんやあの子猫の状態を見れば、ひどいところではなさそうですね」  タイガは会話に加わりたい気持ちをぐっとこらえて、スクリーンに映る〈エデン〉の光を強く見つめた。  ドームの入り口を示す橙色の光はしだいに大きくなり、まるい口腔を示してアルゴ号をベースの中へと誘っている。球体のどてっ腹に穴を穿ったようなこのゲートが、ドーム唯一の出入り口だ。ドームを出るすべての船は、ここから旅立ち、またいつかここに帰ってくるし、帰ってこないこともある。 (明後日には、キャプテン・ヘンリーのアークシップもここから飛び立つんだ……)  世界にたった一機だけの探査船《アークシップ》は、ここ〈エデン〉の基地《ベース》に置かれ、旅立ちの時をいまかいまかと待っている。  〈エデン〉は三つのドームの中でもっとも大きく、世界の中心的な存在だ。三つのドームにはそれぞれ統治局≠ニいう名の政府組織があるが、それらをさらに統括する〈世界連合統治局統合本部〉という大仰な名前の統治機構が〈エデン〉にある。ただ、これだと名称が長すぎるので、略してHUGOGC《フゴーク》と呼ばれている。あるいは単純に本部≠ニ呼ぶ者も多い。  〈エデン〉というのは旧時代の神話に出てくる楽園の名だという。ほかのふたつのドーム〈アルカディア〉と〈ポンライ〉も、やはり旧時代の神話に登場する楽園からとられたものだと教わった。〈アルカディア〉には広大な食糧生産プラントがあり、ほかのドームの台所を支えている。〈ポンライ〉には機械工場とにぎやかな商業施設が所狭しと混在していて、熱気と活気にあふれた迷路となって、ある種の異様な空間を造っている。〈エデン〉は大きさこそ最大ではあるが人口は少なく、その半分が本部士官か本部直属の研究施設で働く人、あるいは学院や養成所の生徒だ。  それぞれ特色はあれど、どのドームも人類にわずか残された安寧の地であることに変わりはない。「かつて天から追われた人類が、こんどは地からも追われ、しかたがないから持てる技術のかぎりを尽くして自分たちで必死に築き上げた、悲しい人造の楽園さ」―父はそう語っていた。  なにが悲しいのか当時はピンとこなかったが、ドームの外の闇を知ったいまのタイガにはわかる気がする。  〈終末の口付け《キス・オブ・ウィークエンド》〉、あるいは〈世界の終焉《ラグナロク》〉という名で歴史に語り継がれている大惨事は、太陽≠ニいうなによりも大切な光の球を地球から奪ってしまった。そこで人々は、ドームという城塞を築き上げ、気温も湿度も完璧にコントロールされた安全な空間に住まうようになった。  かつての文明の遺跡を足元に敷いて中空に建てられた巨大な球型の建造物―それが〈ドーム〉だ。「まるで地球につなぎとめられた小さな惑星のようだね」という言葉で、父はドームを表現した。人々はその惑星の表面ではなく内側に、階層を作って住んでいる。ドームでは毎朝人工太陽が打ち上げられ、夜になれば回収される。擬似的な昼夜の営みを繰り返しながら、人類は過去の地球を懐かしみ、未来の希望にすがって現在を生き続けている―と、これも父の言だ。  父によれば、かつて天空に輝いていた太陽≠ニいうとても明るい光の球は、人類に欠かせぬものだったらしい。人類どころか、生命そのものに必要不可欠な存在だったらしい。昔は熱も光も人間の手で作り出す必要はなく、常時、太陽から供給されていたのだという。天空は太陽がもたらす光で青く輝き、ときとして桃色や茜色に染まったという。さらに真っ白な水分の固まりが自動的に浮かび上がって漂い、刻一刻と気まぐれで繊細な絵画を描いていたという。いまのドームにも人工の青空は広がっているが、朝焼け≠竍夕焼け≠竍雲≠ヘない。すべてはほんものの太陽を失ったせいだ。  もっとも、太陽そのものが消えてしまったわけではない。太陽はいまも太陽系の中心で輝き続け、宇宙のさまざまな脅威から地球を守ってくれているという。だが、この場所からその姿を仰ぐことはもはや叶わぬ願いだ。地球を覆うどす黒い塵は分厚くて、光の一筋も通さない。 「タイガはまだほんとうの暗闇を知らないだろうね」  古ぼけた天球儀を回しながら、父がぽつりと漏らしたことがある。 「しってるもん。ほら」  幼いタイガは目をぎゅっとつぶってみせた。父は笑って、タイガの髪をくしゃくしゃとかき回した。 「それはほんとうの闇ではないよ。瞼から光がさしこむから。ほんとうの闇は、光がまったくないんだ。闇だけ。目を開けても、見えるものはなにもないんだ」 「なんにも? なんにもみえないの?」 「そう、なにも見えない。だからなにもない」  父が言うほんとうの闇を想像しようとして、幼いタイガは身震いした。 「うーん。ぼく、よくわかんない」 「そうか。それもまた、ひとつの闇かな……」  あのとき父はなにを思っていたんだろう。  少年期に出身地の〈ポンライ〉から〈エデン〉へ移住してきた父は、フューシップに乗ったことがある。つまり、ドームの外に広がる闇の世界を知っている。でも、船のヘッドライトに照らし出された闇は、ほんとうの闇ではないのだろう。では、父はなにを知っているんだろう。どこでほんとうの闇を見たんだろう……。  前方のスクリーンを見据えながら、いまあらためて真の闇を想像したタイガは、ふたたび身震いした。 「タイガくん、着陸は繊細な操縦を要求する、上の空ではいかんぞ」 「は、はい」  師の注意に首をすくめ、タイガは父の言葉と闇を振り払った。スクリーンにはもう光の輪が迫っている。  カリーナがエデンベースのランディングオペレーターと通信をはじめている。  そのやりとりを耳に入れながら、タイガはレバーの操作に集中した。こうなったらもう、あのミストにだってタイガを振り向かせることはできないだろう。タイガの集中力と制御力は、養成所の同級生の中では一番だと評価されている。  コックピットでもっとも若い操縦士に委ねられたフューシップは、慎重な飛行を続けながらまばゆい楽園に近づいていった。楽園の巨大な口腔は輝きをうねらせながら紡錘型の船体を呑みこみ、やがて闇の中に沈黙した。 ■ 第二章 幻影銀河とアルゴ号 1 パシーとの出会い  着陸を無事に果たし、フューシップドッグにアルゴ号を格納し、機内点検への立ち会いもすませ、ジェイソン教官から悪いところをこってりと絞られつつ操縦の内容を復習し、ようやくこの日の研修メニューを終えてやれやれと肩を回しながらトリトランサーの控え室から廊下に出たタイガは、目をみはった。  真っ白な廊下の隅から愛らしくこちらを見上げてくるのは、見覚えのある黒い瞳。そしてその毛並みは、やはり見覚えのあるしましまの虎柄。  アルゴ号の迷子の子猫だ。  いつの間にアルゴ号から出てきたんだろう、そもそもこの猫はミストが預かったんじゃないのか、じゃあこの赤い首輪はミストがつけたんだろうか、そういえばミストがアルゴ号から出てきた気配はなかったけれどどこに行ったのか、などなどたくさんの疑問がいっぺんにタイガの胸に湧いてきたが、いまはそれどころじゃない。このエリアはまだ人が少ないほうだが、基地の中央に出れば、整備士をはじめほかの船のパイロットなどさまざまな大人たちが行き交っている。そんなところを素性不明の子猫がふらふら歩いていたら、すぐにだれかに見つかってしまう。  タイガは急いで子猫を拾い上げ、どこかに隠そうとした。しかし、子猫はそんなタイガの思惑など知ったこっちゃないと言わんばかりに手の下をさっとくぐり抜け、とことこと廊下を歩きだしてしまった。  タイガが慌ててあとを追うと、子猫はさらに足を速めた。まるで追いかけっこを楽しんでるかのようだ。 「待ってよ、そんなことしてる場合じゃないんだってば!」  タイガはだんだんむきになって子猫を捕まえようとした。しかし、すばしっこい子猫はタイガの手をするりするりと避けてしまう。からかうように尾を振りながら、長い廊下の角を曲がる。 「あっ!」  だれかにぶつかりそうになって、タイガは急停止した。 「えっ? 猫?」  相手はタイガよりも猫の存在に驚いたらしい。子猫はその足元に飛びつき、甘えるように身をすり寄せる。  そのかわいらしいしぐさを見た彼女の口元に、小さな笑みが浮かんだ。  真っ白な廊下にぽつりと落とされた、赤い花のような少女だった。  もっとも、タイガはほんものの赤い花を目にしたことはない。過去のありとあらゆる記録を保存している巨大データベースシステム〈アーカイブ〉で映像を見たことがあるだけだ。なのに、とっさにそんな印象を抱いたのは、あざやかに光をはじく赤茶色の髪のせいだろうか。きりりと吊り上がった気の強そうな目と眉のせいだろうか。  年はタイガと同じぐらいに見えた。 「あなたの猫なの?」  子猫を抱き上げた少女がようやくタイガに視線を向ける。彼女が笑っていたのはほんの一瞬で、いまは黒い瞳できつくタイガをにらみつけている。声もなんだかとげとげしい。  子猫の秘密がばれてしまったのか……タイガは肝を冷やした。  しかも背後から、かつ、かつ、と廊下を歩いてくるブーツの音までする。  大人の足音だ。  もうだめだ、とタイガはぎゅっと目をつぶりたくなった。存在してはならない子猫は、確実に見つかってしまう。自分が飼っていることにしてごまかしたいが、まず説得力がないだろう。生きている愛玩動物には人間並みの課税があるし、ほかにも厳しい審査がたくさんある。ペットを飼う理由、飼育に関しての知識、飼育に信用がおけるか、などなど。愛玩動物は人間と同じようにすべての個体が統治局によって管理され、貸し出しというかたちで家庭に委ねられるのだ。最終的に許可が下りるのは経済的に豊かな家だけで、一般の家庭にはゴムのぬいぐるみか電子ペットがせいぜいだ。 「よう、パシー。こんなとこまで来てたのか。親父さんが捜してたぜ」  足音が廊下を曲がって停止すると同時に、ひょうひょうとした声が降ってきた。タイガには聞き覚えがあった。この声に、こんなにほっとすることがあろうとは! いくらかの驚きとともにぱっと振り向くと、そこにいたのは果たしてあの男、傍若無人で神出鬼没なミストだった。 「やーっと見つけたぜ、タイガー。なにちゃっかり女の子と仲良くなってんだよ。パシー、その猫はちょっくらわけあって俺が預かってんだ。返してくれねぇか」 「ミストさんが?」  パシーと呼ばれた少女は不審そうにミストを見上げた。それでもミストが手をひらひらと動かしてうながすと、しぶしぶといったようにその手に子猫を渡した。  ふたりが知り合いだと知って、タイガはほっとした。子猫のことはミストがなんとか言いくるめてくれるに違いない。 「おい待てタイガー、また逃げる気か。おめぇ、俺が助けてやったってのになんで俺の言うこと聞かねぇんだよ」  子猫はミストの手からするりと逃げて、またパシーの足元に戻ってしまった。よほどパシーのことが気に入ったのか、ミストをからかっているだけなのか。 「ミストさんもジェイソン先生の言うことぜんぜん聞いてないみたいだし、そんなもんじゃないの?」 「おっ、ちょっとのあいだにずいぶん生意気言うようになったじゃねぇか、チビタイガー」 「なに、ミストさん。こんなやつと知り合いなの?」  初対面の少女にいきなりこんなやつ呼ばわりされて、タイガは面食らった。 「おまえらこそ知り合いだったとはな。ひょっとしてボーイフレンドか?」  ミストの言葉に、パシーが眦を吊り上げる。 「ボーイフレンド? 冗談じゃないわよ、たいして実力もないくせにプロフェッサー・ヤギリの子供だからって大人たちからえこひいきされてる子なんて!」 「…………」 「この猫もてっきりあなたのパパのコネで飼ってるのかと思ったわ」  いつもだれかが陰でこそこそ父のことを言っているのは知っていた。だが、こんなふうに面と向かって言われたのは初めてだ。あまりの言葉の重みに、タイガはよろめきそうになった。  その肩に、さりげなくミストの手が置かれる。 「そう言ってやるなよ、パシー。こいつのアルゴ号に乗ったけどさ、俺より操縦うまいぜ」 「フューシップの操縦桿なんか握ったことのないミストさんよりうまいのは、あたりまえでしょ。養成所をばかにしてるの?」  パシーはだれに対してもあたりがきついみたいだ。こんどはミストに喧嘩を売っている。ところがミストは怒りもせずに、にやりと不敵な笑みを浮かべた。 「あれ? 知らなかった? 俺、トリトランサーの免許持ってたんだぜ?」 「えっ!?」  タイガとパシーは同時に驚いた。 「ほら、俺を拾ったのが老師《ラオシー》だからさ、俺もとうぜんのごとく養成所に通ってたわけよ。で、ほかにすることもなくてヒマだったから、とんとん拍子で受かったわけ。でも、本部の正士官になるとイロイロめんどくさそーだなーってことで、就職しなかったわけ」 「そんな……トリトランサーにならなかったなんて……」  トリトランサーに憧れるタイガにとっては衝撃の事実だ。トリトランサーの免許を得るには血のにじむような努力が必要なのに、それをあっさり手に入れて、しかもトリトランサーの道を選ばない人がいるなんて。  ショックのあまりくらくらする頭をおさえたタイガに、ミストはにやりと笑いを向ける。 「ロンは養成所の同期で幼なじみだから俺に甘いわけよ。見知らぬ他人だったら、マジで容赦なく奈落に叩きこんでるぜ、あいつ」 「僕、ロンさんに同情します……」  そんなに昔からミストといっしょだったなんて、さぞやさんざん振り回されてきたことだろう。しかも、ミストはそれを自覚しているのだ。なのにひねくれもせず真面目にミストの相手をしているロンに、タイガは心の底から尊敬と同情の念を覚えた。 「……信じられないわ」  パシーは目を大きく見開いてミストを見ている。その黒い瞳には、驚きや不信よりも困惑が浮かんでいた。 「それがほんとなら、ミストさん、なんでもできすぎるじゃない……」 「おう、俺は天才だからな!」  ミストは照れもせずにカラカラと笑った。 「未就航のまま三年過ぎた時点で、免許は剥奪されたけどなー」  免許などまったく惜しがっていない、そんな口調だった。 「ばかじゃないの、信じられないわ!」  とたんにパシーが激昂した。 「トリトランサーの免許にどれほど価値があるかわかってるの!? アークキャプテンになるのだって、トリトランサーの免許と経験が大前提なのに! それをあっさりなくしたなんて、よく私たちの前で言えるわね!」  タイガの心情そのままだった。ちょっと怒りすぎだが。  たしかにミストは無神経だ。トリトランサーを目指す子供たちにとってそれがかけがえのない宝物だということを、理解していない。それに引き替え、このパシーという少女はよくわかっている。  待てよ、……私たち? 「そういえば、君はだれなの? 僕のことを知ってるみたいだけど、パイロット養成所の人?」  タイガは同級生たちのことを順番に思い浮かべてみたが、彼女ほど印象に残る少女は心あたりがなかった。外見もそうだけど、こんなにたて続けに無遠慮な口を利く人のことなら、必ず覚えているはずだ。 「あんたなんかに教えたくないわよ」  つん、とそっぽを向かれてしまった。なぜここまで嫌われているのか……タイガは怒りを覚えるよりも先に悲しくなってきた。  やっぱり、父が有名人なせいだろうか。 「おっと、そいつはちょっとかわいくないぜ、パシーちゃん」  チッチ、と人さし指を振ってミストが口を挟む。 「親父さんが見たらなんて思うかな? いつも言われてんだろ、一流のパイロットは人とのつながりを大切にするもんだって。それでこそ、仲間たちを気遣えるいい船長になれる、ってさ。しかもこいつ、おまえの先輩にあたるんだろ? こいつに操縦教わることもあるかもしれねぇんだし、仲良くしといたほうがいいぜ」 「うるさいわね。ミストさんに言われなくたってわかってるわよ」  きっとミストをにらみつけ、パシーはものすごくいやそうに自己紹介をした。 「パトリシア・マクレガーよ。あんたと学年は違うけど、パイロット養成所の生徒よ」 「マクレガーって、もしかして」  思わず漏れたタイガのつぶやきに、パシーのまなざしがますますきつくなる。 「そうよ」  喧嘩を売る口調でパシーは言い放った。 「あんたも知ってるでしょ、ヘンリー・マクレガー。こんどのアークキャプテンは、私の父よ」 2 キャプテン・ヘンリー  ヘンリー・マクレガー。その名を知らない人などいるだろうか。  二十年にただひとり選ばれる、パイロット中のパイロット〈アークキャプテン〉、それがヘンリー・マクレガーだ。すべてのトリトランサー志願者たちの憧れの的と言っても過言ではない。  彼は八機あるフューシップのひとつ、スレイプニル号の名船長だった。たしかな操縦の腕前とだれからも慕われる高い指揮力を買われ、〈アーククルー〉としての訓練を受けるようになり、二年前、ついにHUGOGC《フゴーク》からアークキャプテンに任命された。  アーククルーは宇宙で生活するための特別な訓練を受けた人たちのことで、アークキャプテンとは彼らを束ねる船長のことだ。彼らはアークシップと呼ばれる巨大な宇宙探査船に乗って、人類が住めそうな惑星を探すために未知の世界へと旅立つ。ドームを飛び出すどころか、地球の闇さえも突き抜けることができるのだ。宇宙空間を縦横無尽に駆けめぐり、さまざまな危険を乗り越え、いずれは帰還して人類に朗報をもたらしてくれる選ばれし五十人の英雄たち、それがアーククルーたちなのだ。  つまり、アークキャプテンとして選ばれたヘンリー・マクレガーは、英雄たちの頂点とも言うべき存在なのだ。  そのヘンリー・マクレガーにつながる少女が、目の前にいる。  パシーの告白にタイガが喜ぶべきか畏れるべきか混乱し、頭を真っ白にしていると、 「あー、その親父さんがおまえを捜してるんだった。拗ねてないで戻ってやれよ、パシー」  しゃがみこみ、パシーの足元にいる子猫をちょいちょいと指で招きながら、ミストが言った。 「お断りだわ」  パシーと子猫がそろってつんとそっぽを向く。 「ミストさんこそ、パパのところに行かなくていいの? もう会見がはじまる時間でしょ」  庇うように子猫をふたたび抱え上げながら、パシーはミストにしっしと手を振った。ミストはへらっと笑って自分の頭をかき回す。 「あー、いいんだよ。同業者がわんさかあふれかえってるような場所は苦手でさ。もっとナマであたりたいから、取材すんなら一対一と決めてんだ。それに、アポならもうとってあるしな。今夜、ちょいと酒でもやっつけながら話聞かせてもらう予定だぜ」 「いつの間に……」  パシーが怒りを落っことしたような呆れ顔になる。タイガは今日はもう驚いてばかりだ。このミストが、歴史的大人物とも言えるキャプテン・ヘンリーとお酒を飲みに行くような間柄だったなんて!  出生が謎に包まれていることもあいまって、目の前の男がほんとうに得体の知れないもの―それこそ、ゴーストに思えてきた。 「ああ、チビタイガー、どうせならおまえもヘンリーさんに会ってみっか? 憧れてんだろ?」  ミストはこんどはタイガの頭をわしゃわしゃとかき回した。 「えっ? いいの?」  うっとうしい手を払いのけることも相手の得体が知れないことも忘れ、タイガは思わず身を乗り出した。 「いーのいーの。ヘンリーさんは気さくな人だからな、握手ぐらいはしてくれると思うぜ」 「ほんと!? やったあ! 僕ミストさんに会えてよかった!」 「ちょっと、人のパパのことでかってに話進めないでよ!」  急にパシーが怒りだした。はじめからずっと怒っているような少女だったが、それまでの上段から斜にかまえたような余裕をかなぐり捨て、ほんとうに怒っている。 「いいじゃねぇか、ヘンリーさんが減るわけじゃなし。心配ならおまえも来ればいいさ。あ、もちろんおまえら子供は酒ナシだからな。遅くならねぇうちにさっさと帰れよ?」 「行くわけないでしょ!」  顔を真っ赤にして憤るパシーを意地悪くにやにやと眺めながら、ミストがぽんぽんとタイガの肩を叩く。 「じゃ、チビタイガー、今夜二十時にベースの九番出口で待ち合わせな。ヘンリーさんともそこで待ち合わせてんだ。せっかくだからサインもらえるように話しといてやるぜ」  かっ! という鋭い音が廊下に反響した。パシーのブーツが床を叩いたのだ。 「あなたたちってほんと無神経ね! もう、かってにすればいいわ!」  靴音を高く響かせ、パシーは走り去っていった。ミストがやって来た方角へ。 「けっきょくヘンリーさんのとこに帰ってくんじゃねぇか」  パシーを挑発した本人は悪びれもせずにへらへらと笑い、 「ミストさんといっしょに無神経ってことにされた……」  タイガはひそかにショックを受けた。 「あの子、なんであんなに怒ってたの?」 「大好きなパパを俺たちにとられるのがイヤなんだとよ。まったく、あいかわらずきっついねぇパシー嬢は。タイガーのほうがまだかわいげがあるぜ」 「いいの? そのタイガー、どさくさにまぎれて連れてかれちゃったよ?」 「ま、しかたねぇよ、タイガーがパシーに懐いてるみてぇだからな。あいつんち犬飼ってるし、ペットの一匹や二匹問題ねぇだろ」 「でも、秘密がばれたら……」 「大丈夫だって。赤い首輪見たろ? あれに即席の偽チップ埋めこんであっからさ」 「犯罪だよ、それ……」  そもそもそんなアブナイもの、この短時間でどうやって手に入れたんだろう。  この男、やっぱり得体が知れない。 「それに、もしヘンリーさんにばれたって問題ないさ。あの人は俺の秘密も知ってっからな」 「そんなに仲がいいの!?」  もしや自分以外の全人類がミストの秘密を知っていたんじゃないか、そんな錯覚をしそうになる。 「六年ぐらい前だっけなー。俺がアルゴ号で研修受けたときの付き添い船長さんがヘンリーさんだったのさ。そんときからの仲だぜ」  つまり、タイガにとってのアルフレッド船長のような存在だったというわけだ。  タイガは唇を噛んだ。名教師のジェイソン教官に拾われたうえ、未来のアークキャプテンに研修で付き添ってもらえるなんて、ミストはなんと恵まれているんだろう! つくづく、トリトランサーを選ばなかった彼が恨めしい。  タイガにじっとりとにらまれていることに気づいているのかいないのか、 「ところでおまえ、これから予定ある?」  手首の通信機を操作しながら、ミストが唐突にそんなことを聞いてくる。 「え? 今日の授業ならもう終わりだけど……」 「よし、暇ってことだな」  ミストがかってに決めつけたとき、ひゅっと音をたててふたりの横にホバーバイクが止まった。ベース内移動用の、小型の立ち乗りホバーバイクだ。公共用のものをミストが通信機で呼び寄せたらしい。 「行くぜ、チビタイガー」  いきなりぐいと腕を引かれ、たたらを踏んだタイガはホバーバイクの上に乗ってしまった。 「行くって……どこに」 「まだひっみつー。黙ってお兄さんに付いてきなさい。よっしゃ、ゴー!」 「誘拐だよ、これ……っ! 犯罪者ーっ!」  タイガの叫びは急発進したホバーバイクに引きずられ、あっけなくベースの出口へと吸いこまれていった。 --------------------------------------------------