『月光と月と三日月の剣』  天月翔子 ●はじめに ・本文のうち、6p〜41pの途中までの内容です。 ・ふりがなは《》で表示しています。特殊読みのみふってあります。 ・smoopy(http://site-clue.statice.jp/soft_smoopy.php)とか使って読むと幸せになれるかも -------------------------以下本文------------------------- ■エピグラフ    世の生まれは三つの光。すなわち、    太陽《アルク》は生と死の覇者、運命の紡ぎ手。その光は命を宿らせ、     月 《ラスク》は光と闇の覇者、勝利の招き手。その光は命を猛らせ、     星 《レイク》は愛と美の覇者、豊穣の護り手。その光は命を満たす。    光伴いし三身、天を開きて、その慈悲をあまねく地に下せり。    聖霊、人、獣、みな三神の守護のもとに栄えるものなり。 クエルアル太陽神殿所蔵『創神記 序』より ■プロローグ  1. 青年  黄昏が迫っていた。 (死ぬかもしれないな……)  かざした指の隙間からちらりと夕日を盗み見たとき、ふと、そんな思いが彼の喉元に込み上げた。 (今度の任務ばかりは、さすがに……)  憂いの重みに瞼が落ちる。だが、瞑想はほんの束の間だった。鳶色の目はすぐに鋭利な光を取り戻し、稜線へと落ちゆく太陽をひと睨みした。  彼を乗せた青毛の馬はかろやかな足取りで、その太陽に向かって歩み続けていた。  行く手に伸びるは、土を固めただけの簡素な街道。道の左右は萌黄色の低い草で埋め尽くされている。見渡せど見渡せど道と草地しかない、うら寂しい田舎の風景だ。  ざわざわと草を騒がせ、初春の風が道を横切っていく。馬のたてがみを揺らし、馬上の男の髪を舞わせ、バンダナの端を宙に踊らせる。  栗色の髪の下に巻かれたバンダナは、目に鮮やかな緋色。彼が着ている外套とそろいの色だ。緋色のバンダナと緋色の外套でただでさえ目立つ格好の男だが、夕光に縁取られた姿はなおさら赤く、遠目に見る者があれば血まみれとも見まがうだろう。しかも黒い馬に乗っているのだから、〈冥府の使い《ハーディーヤーン》〉をも連想させるに違いない。太陽神の定めし寿命を半ばで断ち切る冷徹な死神は、夜の闇よりも暗い馬に乗ってやって来るという。  もちろん、馬上の男はハーディーヤーンとして描かれるような骸骨姿ではない。ましてや死人でもない。十八の成人を迎えたばかりの、凛々しくて健康的な青年だ。ほどよい肉付きの長躯からは、年相応の若々しい生気が溢れ出している。彼が胸の裡に抱く恐れとは裏腹に、死はまだとうぶん彼のもとを訪れそうにない。  そんな頼もしい体の上に載った顔は、精悍というよりは繊細で、やや甘い。されど双眸は鋭く、なにもかもを貫き殺しそうな光を宿している。  その鳶色の目が、苛立たしげにほそめられる。 (なにをいきなり弱気になっている? これだからフレアに心配されてしまうんだ) 「必ず帰る」  彼は妹にそう言い置いて王都を出てきた。十日前のことだ。ふたつ年下の妹は、亜麻色の髪を揺らしてものわかりよく頷いたが、その聡い耳は、強い口調に隠されたかすかな恐れを聞きわけていたに違いない。やわらかな桃色の唇はなにも言わなかったが、憂いを帯びた胡桃色の瞳は、幾億の言葉よりも強く彼を引きとめていた……。 「はっ!」  彼は唐突に馬を駆けさせた。  なにかを振り切るように、土埃を蹴立てて街道をひた走る。 (俺が失敗すれば、フレアは殺される。あるいは自分で死を選ぶだろう)  走っても走っても、焦燥はじりじりと胸に追い着いてくる。 (だが、そんなことはさせない。俺は必ず生きて帰る。必ずあいつを殺して、フレアのところに帰ってやる!)  しなやかな馬の背に揺さぶられながら、彼は腰に提げた長剣の重みをたしかめていた。  長年使い、すっかり手に馴染んだ剣だった。鞘は安物の黒革。柄の細工は控えめで、三日月を象った鍔はありふれた意匠のひとつ。幅広に造られた刀身以外は、これといって目を引くもののない地味な剣だ。それでも、すらりと抜き放たれたその刃を目にした者は、眼識あらば抗いがたく惹きつけられるだろう。知識ある者は、剣の名を言い当てるかもしれない。そしてもしも市場に出回ったなら、地方の城をまるごと買って釣りが来るほどの値がつくはずだ。  しかし、当の持ち主はそんな金銭の価値には興味がなかった。彼がこの剣を重んじて肌身離さず身につけているのは、生と死を分かち合ってきた頼もしき戦友という、ただそれだけの理由だ。  いや、理由ならば、もうひとつあった。  彼を束縛する鎖の象徴であり、憎しみを掻きたてる存在として。  この剣を帯びている限り、彼は否応なしに戦う理由を思い出す。  それゆえに、この剣を手に戦い続ける限り、負ける気はしない―― (この剣が死神のために造られたというのなら、俺は死神だ)  馬を駆けさせながら、彼は心に強く思う。 (たとえ太陽神《アルク》が勝手に人の運命を定めていたとしても、俺がすべてこの剣で断ち切ってやる。ふん、なにが命の源だ、生と死の覇者だ。ただ天で偉そうに照りつけてるだけじゃないか。人の死を救ったことなど、一度もないくせに!)  八つ当たりぎみに、地平の光をもう一度睨めつける。  偉大なる天空の太陽《アルク》はなにも言わず、刺すような――あるいは祈るような視線を淡い朱色の中に溶かし込んで、彼方へと燃え落ちていった。  2. 少女  黄昏が深まろうとしていた。 (なぜ、まだ生きてるのだろう)  太陽は空に朱を広げながら稜線の彼方へ燃え落ち、その向かいの中空では、ようやく月《ラスク》が昇りはじめていた。膨らみかけの輪郭が、うすら蒼い空にほの白く灯っている。  その月をなにげなく視界に収めたときだ。茫漠たる闇に沈んでいたはずの彼女の意識が、かすかにざわめいた。 (ザントゥールがいないのに、なぜ私は生き続けているの?)  心の奥底で悲痛な思いが蠢こうとしている。それを拒むように、彼女は月から視線をはずした。歩みを止めていたのは、ほんの束の間。足は再び動き出し、これまでと同じように、ただ先へ先へと進み続ける。  その足元に、道は、なかった。彼女の周囲は萌黄色で埋め尽くされていた。丈の低い草――といっても、彼女の膝を覆うほどの高さはある草が、あたり一面、野放図に生えているだけだ。  その草を右へ左へ払い分けているのは、右手に握りしめた長剣。鞘付きのもの。  まだわずか十五の少女の細腕に長剣とは、ふしぎな取り合わせだった。  剣そのものは、華奢な見た目の少女によく似合っていた。白金色の鞘と柄は黄昏に照り映え、やわらかに溶けた黄金にも見える。柄と刀身は直線的な十字型で、飾り気はいっさいないが、洗練された美しさがある。刃幅は一般に普及している長剣よりも細身で、軽そうだ。  それでも女、ましてや子供が持つには、鉄の剣は重過ぎる。……はずなのに、鞘に収まったその剣を、彼女は右腕だけでかるがると扱っていた。  疲れた様子もない。速さをゆるめることなく、草の海をひたすら歩き続けている。  その姿はさながら、止まることを忘れた発条人形のようだった。  いや、人形ならばもうすこし愛嬌があってもいいだろう。それなのに、彼女の唇は微笑みを知らぬかのように固くぎゅっと引き結ばれたままだった。切れ長の黒い目も、光を知らぬ底なし沼のように暗い闇だけを覗かせている。血の気のない顔は強張り、陶器の仮面を思わせる。年相応のあどけなさは片鱗もなかった。真っ黒な髪は背中にずっしりと垂れ、まるで淀んだ闇を背負っているかのよう。  その髪が夜風に煽られ、重たげに揺れる。夜の寒さは少女の首筋を通り抜け、その体を小さく震えさせる。 (今夜も焚き火が必要……)  背負い袋の中の燃料は、もう残りすくない。食糧も同じく。そろそろ人里を見つけなければ、明後日には薪も食糧も尽きるだろう――焦りも不安もなく、彼女はただ淡々とそう見積もった。  ふいに草が途切れ、サンダルの底が茶色い土を踏んだ。 (道……?)  右から左へまっすぐに、土を固めた道が走っていた。ところどころが草に浸食され、あまり手入れが行き届いていないようだったが、太い道だ。両端には、馬車の轍が浅く溝を掘っている。  馬車が通る道の先には、必ず街がある。  かすかな安堵が彼女の瞳に浮かんだのは、刹那にも満たない一瞬のことだった。  感情などはじめから存在しなかったような顔で、彼女はゆっくりと周囲を見回した。  薄闇色の視界に映るのは、草と土の寂寥とした風景ばかり。近くにはまだ、人影も人家もない。  それでも、どちらかの方向に歩き続ければ、じきに人の住む場所へ出るだろう。 (どちらへ行っても同じこと……)  そう思いながらも、彼女の足は当然のように東へ向けられていた。  すなわち、月が昇り来る方角へ。  視界の真正面に大きな月が浮かび、彼女はふと足を止めた。  夜風に煽られた草のように、胸の裡がざわめくのを感じていた。  その奇妙な焦燥から目を背けたくて――という自覚はなく、ただ月の眩しさから目を逸らすために、彼女は天頂を仰いだ。  見上げた紺青の空には、すでに星々が灯りはじめていた。 (…………)  胸奥のざわめきは再び失われていた。彼女はもはやなにかを思うこともなかった。  夜を彩る星々《レイク》の麗しき輝きさえも、その闇色の瞳に光を送り届けることはできなかった。 ■第一章 忙しい夜  1. 野盗  夕光の残滓はすっかり濃紺の闇に塗り替えられていた。星は滴り落ちんばかりに満天を彩り、月は天頂に昇りつめて白々と地表を照らしている。  その月明かりの下を、斬り進むように動く光と影があった。  光は青年が持つランタンの炎で、影は彼の乗る黒馬だ。彼らは夜になっても休まず、まだ街道を進み続けていた。  男はなぜか、己の存在を誇示するように、ランタンを頭上高く掲げている。  ときどき馬の歩みを止め、闇の先にじっと耳を傾ける。  あるいは、目をほそめて遠くを見やる。  なにかを捜しているようだった。  やがて、鳶色の瞳に剣呑な光が灯る。口元には、うっすらとした笑み。  彼がランタンの火を吹き消すと、馬は緊張した様子で足を止めた。  その鞍から音もなく滑り降り、馬を道の端に留めると、男は草に身を潜めて歩きはじめた。  慎重に草をかき分けながら、にじるようにゆっくりと進む。  折良く風が草地を吹き渡り、ざわめく草の音が、彼の存在を獲物の耳から完全に隠してくれた。  いくらも進まないうちに、彼の視界は遠くで揺れる炎を捉えた。  黒い革手袋に包まれた手が、そっと剣の柄に触れる。  狩りの成功を予感しながら、彼はゆっくりとその炎へ近づいていった。 * * *  ゆっくりと近づいてくる気配を、風が告げる。  街道脇で野宿をしていた少女は、はっとして目を覚ました。  嫌な予感が胸に湧き上がり、それはすぐ確信へと変わった。  草の匂いに、かすかな血の匂いが混ざっている。  うっすら開けた目の先には、焚き火を反射してちらちらと光るもの。  だれかが引っ提げた抜き身の剣だ。その光が、ゆらゆらと不気味に揺れ動きながら、迫ってくる。  野盗だ。  商人や旅行者を襲い、金目のものを奪う無法者たちだ。それも、人殺しを厭わない手合いだろう。彼らに纏わり付いて離れない血の匂いが、その事実を雄弁に語っている。  ……このままでは殺される。  少女の手は、胸に抱いたものへと伸びた。  毛布を動かさないよう気をつけながら、そっと右手を当てる。  そこにはあの美しい剣があった。用心のため、少女は剣を抱いたまま眠っていたのだ。  冷たい柄を、手のひらがぎゅっと握り込む。とたん、その場所からじわりとふしぎな熱が湧き出した。熱は体の隅々にまで広がっていく。  一度だけ、心臓が大きく跳ねる。  光芒が闇を裂いて射し込むように、あらゆる感覚が冴えていく―― (もう、囲まれている。七……いや、八人)  身を横たえて薄目を開けたままの状態で、少女は周囲の状況を正確に察知していた。  闇色の目に灯るは、刃物めいた鋭利な輝き。  きゅっと引き締められた口元は、かすかに笑っているかにも見える。  人形のように茫洋と草地を歩いていた少女の面影は、すっかり消え失せていた。  いま、彼女の面を支配しているのは、戦うものの表情だ。いや、狩猟者の表情というべきか。  爪を研ぎ終えたしなやかな黒豹のごとく、闇に身を横たえ、じっと獲物を待つ。  ゆっくりと、ゆっくりと引きつけ――  跳ね起きようと、全身に力を込めたときだった。 「待て!」  静寂を破る大音声が響きわたり、野盗たちが驚いて振り向くよりも早く、一人の首が吹っ飛んだ。 「なにぃっ!?」  驚愕の声を斬り伏せて、再び白刃が閃く。その剣さばきは寸分の狂いもなく、あっという間に二人目の首を飛ばした。 「だ、だれだっ!?」  呻いた野盗を、べつの白刃が襲った。  少女が闖入者に気を奪われたのは一瞬だけだった。すかさず跳ね起きたときには、もう剣を抜いていた。その刃を正確に野盗の頸動脈に押し当て、すり抜けざまに掻き斬った。  勢いよく吹きあがる血潮を跳んで避け、闇雲に突っかかってきた次の野盗の剣戟を、両手で剣を支えながら受け止める。  闇に鮮やかな剣花が散った。  刃を弾かれた野盗は、驚きに目を瞠った。子供と思えぬ膂力も意外だったが、それよりも―― 「け、剣が……」  少女が扱う剣は、鉄の剣ではなかった。  旧い時代の、銅や青銅の剣でもない。  いったいなんでできているのか、皆目見当のつかない素材――少女の細腕でも扱えるほどだから、とても軽いに違いない。そして、剣として機能するほどの鋭さを持っているのも、間違いない。  だが、最も驚くべきはそこではない。なんとなれば、その刀身は、磨き抜かれた水晶のように透き通っていたのだ。  血に曇ってもなお、内側から放たれたような光を帯びている。  少女が剣をひと振りすると、光の軌跡を描くような幻が見えた。 「月……」  呆然とつぶやいた野盗は、その瞬間に事切れていた。  血煙を上げて草むらに倒れる男には目もくれず、少女は次の野盗に向かった。こちらに斬りかかろうとして腕を振り上げたところを、すり抜けざまに斬り上げる。  脇から入った刃は首の頸動脈に達した。  鮮血が飛び散る。  野盗は驚愕の表情のまま絶命した。  あっという間に三人の野盗を葬った少女は、すばやく周囲に目を走らせる。次に屠るべき獲物を探すため。  ちょうどそのとき、少女を庇うように立っていた背後の男が、最後の野盗を蹴り倒し、腹に突き立てた剣を引き抜いていた。 * * *  焚き火の周囲は瞬く間にもとの静けさを取り戻した。不運な野盗たちは逃げ出す隙も与えられずに一掃され、動くものは、少女と、闖入者の男と、揺らめく炎だけになった。 「子供相手に八人とは、ずいぶん人手に余裕のある野盗だな。無事か?」  野盗の服で剣の血糊を拭って鞘に収めた男が、背中合わせの少女に声をかける。まったく息のあがった様子のない、落ち着いた声だ。 「おかげさまで。ありがとうございます」  少女は感情のこもっていない澄んだ声で、礼を返した。  剣はまだ抜き身のままだ。  その刃が届かないところまでぱっと跳んで身を離した男は、目をほそめて相手を見やり、 「すごいな」  と、つぶやいた。  言われて初めて気づいたように、少女は髪に手を当てた。手のひらにべったりと血がついた。それを見て顔をしかめることもなく、淡々と、言った。 「返り血です。怪我はありません」 「いや、そっちじゃなくて。ちらりと見たが、たいした腕だ。まだ十二、三の子供、」 「十五です」 「……それは失礼。十五の娘が、いったいどこでそんな剣術を身につけたんだ? それに、その剣――」 「あなたは、どうしてここへ?」  少女は男の質問をあっさり無視した。 「ああ。俺も野盗だと思われてるのか」  未だ鞘に収まることのない剣を一瞥し、男が肩を竦める。 「助けていただいたことに感謝はしていますが、状況的に、どうしても」 「まあ、似たようなもんだな。認めよう。いま、ちょっと路銀が尽きててね」  両手を上げて、男はあっけらかんとそんなことを言った。  剣先を下げたまま、少女がさりげなく足を移した。 「待て待て、最後まで聞いてくれ」男は慌てた。少女が構えたのに気づいたからだ。素人目には剣先を下げてただ突っ立っているだけの無防備な体勢に見えるが、ここから瞬時に斬り上げたり防御に転じたりできる特殊な型の構えだ。 「あんたのような女子供を襲う気はない。まったくない。路銀稼ぎに野盗でも襲おう……というか襲われようと思って夜道を歩いていたところに、ちょうどお仕事中の野盗を見つけて、そこにあんたがいたってだけだ」  頭の上で両手を組み、そう主張する。  少女はやっと構えを解いた。 「つまり、あなたは野盗の野盗というわけですね」一人で納得したように頷く。「それも、多勢に無勢でも絶対に勝てるつもりの、自信家さんなんですね」 「言うね。寸分違わずそのとおりだ。……で、俺はこれから死人の懐を漁るつもりだが、あんたにはお目こぼしを願いたい。立ち去ってくれてもいい」 「私には目をこぼすという芸当はできませんが、」少女は真顔で言った。「あなたがお金を必要だというのなら、お好きにどうぞ。そのためにあなたがだれを殺そうとも、死人の懐を漁ろうとも、私がとやかく言うことはできません」  スカートで丁寧に剣の血糊を拭って鞘に収めながら、 「私だって人殺しですから」そう付け加えた。 「……ご厚情、痛み入るね」  しばし窺うように相手の顔を見つめた男だったが、肩を竦め、それ以上はなにも言わなかった。  2. 黙祷  男はすぐに死体を漁りはじめた。  彼の狙いは、野盗たちが帯びている武器や金銀細工の装飾品だ。どれも、古市で売ればそれなりの金になる。稼業の最中に全財産を持ち歩いている野盗は滅多にいないが、無一文で歩いている野盗というのも滅多にいない。いざというときのために、必ず金目のものを身につけている。それらを八人ぶん根こそぎかき集めれば、三日は楽ができるほどの額になるはずだ。  なるはずだったが……。 「おいおい、あんたら、これっぽっちの男かよ。このご時世に、ずいぶんお上品な稼ぎかたをしてるようだな」  これじゃ安宿がせいぜいだ、と愚痴る男の横を、すっと少女が通り過ぎる。  立ち去ってくれるか、という男の期待は、儚くも裏切られた。  少女は野盗の死体の横に膝をついたのだ。  返り血で赤く染まった手が伸びる。その手はそっと死者の瞼を撫で、かっと見ひらいた目をつむらせた。  さらに少女は、自らの胸に両手を重ね合わせ、瞑目した。  祈りの姿勢だ。 「なにをして――」  いるんだ、フレア。  思わずそう口走りかけた男は、はっとしてその口を噤んだ。 (どうかしている。どこもフレアに似ていないじゃないか)  フレアの顔立ちはもっとやわらかくてやさしい。それに、髪の色だってぜんぜん違うじゃないか。  そう胸に言い聞かせるも、目を閉じたその横顔や、ほそい肩や、祈る仕草が、どことなく妹に似た雰囲気を纏って見える。……見えてしまう。  ほっそりとして折れそうな体つきのせいだろうか。  フレアも昔、死者のためにしばしば祈っていた。自分はそのたびにこう言った。「なにをしているんだ、フレア。死んだやつにそんなことしたって、無駄だ。死んでるんだから、喜びも嘆きもしないさ」「でも、兄さん――」そのあと妹は泣きじゃくりながらいろいろ言っていたが、あまり思い出したくはない。  ……くだらない。じつにくだらない。女はくだらない感傷ばかり持っている。この少女もきっと、一時の感傷に流されてこんな行動をとっているだけだろう。  妹の名を呼びかけそうになった気まずさを、呆れを強めることによってごまかし、男はなにごともなかったような顔で自分の作業に戻った。 * * *  男が一人で勝手に焦ったり呆れたりしている間、少女はずっと祈りの姿勢をとったままだった。  死者を前にして切々とした哀悼の情が彼女の胸に湧き上がり、その行動へと駆り立てている――というわけではなかった。  彼女がただぼんやりと頭に思い描いているのは、ザントゥールのことだけだった。 「わしらは死を糧にして生きているのだよ」とは、狩人である彼の言だ。「だからこそ悼み、そして、感謝をするのだよ」彼はいつもそう言って、食前の席で必ずその行いを実践してみせた。  そんな養い親を見て育った少女も、食前に、あるいは死に対して、祈ることを覚えた。  だからこそ、いまも死者に黙祷の仕草を捧げているのだ。  祈るための心はからっぽで、なんの悲哀も憐憫も感じていないとしても。  いや―― (ザントゥール)  唇がかすかに動いてその名を呼ぶ。  野盗が相手ではなかったが、少女はたしかに、祈っていた。 (セディア、琥珀……)  自分は以前にも、こうして祈ったことがあったはずだ。  彼らのそばで。 (――!)  なにか恐ろしいものを感じて、組んだ手を振りほどき、逃げるように立ち上がった。  耳元をかすめ、小さな風が巻き起こったのはそのときだった。  はっとして振り返る。  そして、目撃した。  死人の懐を漁る男、その背後。  血を流す腹を押さえながら、今にも短剣を投げつけようとしている、一人の野盗の姿を。  3. 負傷  死の時は近い。  血は留まることなく流れ出し、体の熱を奪っていく。  深々と貫かれた腹と背の痛みだけが、いっそう熱い。  息絶える瞬間まで、この苦痛からは逃れられないのだろう……。  灼けつくような痛みの中、幸か不幸か、彼の意識はまだ保たれていた。その意識にしがみつきながら、彼は一人の少女のことを思い浮かべていた。  月光を思わせるふしぎな剣を手にした少女のことを。  その剣を手に戦う彼女の姿は、彼が信奉する女神にそっくりだった。 (おれたちのような稼業の者が、月女神《ラスク》様の手にかかるならば、それも因果というやつだろう……)  鮮血を浴びてかろやかに剣を振るう少女のイメージは、瀕死の野盗に、恍惚さえもたらした。  だが、と野盗は忌々しく思う。だが、もう一人の男には、怒りしか湧き上がらない。  正義の味方よろしくいきなり割り込んできた男は、酷薄な笑みを浮かべながら、部下たちの大半をその無慈悲な刃の餌食にした。  新入りで張り切っていたジャンも、抜けているところはあるが気のいいベイルも、寡黙だが剣の腕はたしかで頼りになるゼクトも、旧き友人であり腹心でもあったテッドも、自分を父と慕ってくれた最年少のログも……。  みな、あの男の手にかかって死んだ。  最後にこちらへ向き直ったときにあの男が浮かべたのは、嘲るような笑み。そして、力ない虫けらを哀れむような目だった。  その表情を思い起こした瞬間、冷えかけていた血がかっと熱くなった。  かすんでいた視界に光が戻る。  風の音、血と草の匂い、冷たい指先――手放していたはずのあらゆる感覚が戻ってくる。  そして次の瞬間、彼は目が眩むほどの強い怒りと屈辱に襲われた。  あいつが、仲間の懐を漁っている……!  ありったけの力を振り絞って身を起こすと同時に、手は、腰の短剣を掴んでいた。  執念がそうさせたのかもしれない。腹の激痛はすっかり遠のいて彼の集中を妨げることなく、血を失った手は震えて照準を乱れさせることもなかった。  野盗が握った短剣は、正確に相手の後頭部に狙いを定めていた。  彼がそれを投げつけようと腕に力を込めたとき―― 「だめっ!」  間に飛び込んできたのは、女神だった。  驚いたような、泣き出しそうな黒い瞳と目が合った。  照準は乱れた。 (あぶないっ!)  だが、短剣の行く先をたしかめることができないまま――女神の肩越しに飛んできたダガーがまっすぐ喉笛に突き刺さり、彼はついに絶命した。 * * * 「よし」  振り向きざまにダガーを投げた男は、野盗が倒れたのをたしかめると、満足げにつぶやいた。 「もう大丈夫だ」  目の前で両腕を広げたままの少女に声をかける。  間に飛び込んできたときは意表を突かれたが、狙いは乱さずにすんだ。 「どうした? 驚いたのか?」  無反応の相手に、男はもう一度声をかける。  突然、少女の上体が揺れた。かと思うと、糸が切れたように、がくりと膝が落ちる。  力なく垂れた右腕を伝って、赤いものが滴り落ちる。  血だ。  野盗の投げた短剣は、少女の腕をえぐっていた。 * * *  ゆっくりと前のめりに倒れていく野盗を、少女は虚ろに見ていた。  すべてが奇妙に間延びしていた。自分がいまなにをしたのか、まったくわからなかった。  息が詰まるほどの鋭い痛みだけが、右腕の上部に残っている。  その場所から熱いものが溢れ出し、生成りのブラウスを赤く染めていく。さらにそれは腕を伝って止めどなく流れ落ち、足元も濡らしていく。  地に広がった染みの大きさに、体が寒気を覚える。  痛みに抗いきれず、全身の力が抜けていく―― 「大丈夫か!?」  膝が落ちた少女の体を、男の腕が支えた。 「……私はいま、なにをしたんですか……?」  喘ぎとともに漏れた言葉に、男が眉をひそめる。 「なにって……。俺を庇って、怪我したんじゃないか!」 「かばった……」  抑揚なくつぶやいて、少女は目を閉じた。……庇った? 自分が? この人を?  なぜそんなことをしたのだろう?  ただ、風があの日と同じように騒いだだけなのに。 (あの日?)  痛みにもがく意識の奥で、うっすらとなにかを思い出しかける。さっき、祈りとともに思い出しかけたなにかを。  思わず、男の腕を振りほどいて逃れた。なにか恐ろしいもの≠ゥら逃れたいがための、無意識の行動だった。  その試みは成功したが、足元がよろめき、再び地に膝をついてしまった。  男の口がなにか言いたげに開き、閉じた。  言い出せぬ言葉は小さな溜息となった。 「とにかく、そのままじゃ危険だ。止血してやるから、横になってろ。傷口を心の臓より上にするんだ」  男は懐からナイフを取り出し、野盗の服を引き裂きはじめた。慣れた手つきであっという間に包帯を作り上げる。だが、いざ手当てをしようと振り向くと、少女の姿がない。 「――?」  少女はいつの間にか焚き火のむこう側にいた。自分の荷袋をごそごそと掻き回している。なにかを捜しているようだ。  右腕からはまだ止めどなく血が滴り落ちている。その雫は炎を反射し、赤い光をきらきらと振りまきながら地に散っていく。  男は目をほそめてその光景を見た。無意識にか、小さく唾を呑み込む。すぐにはっと夢から醒めたような顔になり、さらに、苦虫を噛み潰したような表情をわずかに浮かべた。  だが、 「おい、腕を動かすな!」  やや大仰な焦りの声とともに少女に駆け寄った男には、さきほどの表情は欠片も残っていなかった。  その目の前に、ぐいと一枚の葉が突き出される。 「……?」  怪訝な顔をする男へ、 「ギーバの葉です」少女が簡潔に説明した。「揉んで傷に当てれば、止血と消毒になります。止血に関しては、焼け石に水でしょうが……」  そう言って少女が示した傷は、上腕部の脇に近いところにあった。出血が多いのは動脈が切れたからだろう。  男はすぐに、傷口を上にして少女を横たわらせた。言われたとおりにギーバの葉をもみほぐす。ほどなくして、清々しい芳香があたりに漂った。  服を脱がすわけにもいかないので、切れた袖の間から薬草を当て、さらにその上から即席の包帯を当てる。止血のために強めに包帯を巻くと、少女の口からかすかな喘ぎが漏れた。 「深いな……。指先の感覚はあるか? 動かせそうか?」 「動きます。大丈夫です」  少女はすぐに身を起こし、荷物からあやしげな小瓶を取り出して中身を呷った。かなりまずそうな匂いが男の鼻先までも漂ってくるのに、当の本人はまったく顔色を変えていない。 「……それは?」 「内服用の止血剤です。ディーユの根を日に干して煎じたものです」 「あんた、薬師なのか?」  少女の荷袋を覗き見ると、似たようなガラスの小瓶や干された薬草の束、大小さまざまな木の実などがたくさん入っている。 「薬師というほどではありません。たまたま、人より多く薬草の知識があるだけです」 「ふーん。でも、それだけありゃ、商売ができるな」  男が感心してつぶやくと、少女は頷いた。 「薬草を売ってお金にすることはよくあります」 「それを薬師っていうんだ。まあ、そっちのほうが野盗を襲うより効率がよさそうだな」 「野盗を襲うより、危険もすくないですよ。あなたも薬を売ってみませんか」  少女はずっと真顔なので、その勧誘が冗談なのか本気なのかわからない。 「……いや、気持ちはありがたいが、俺には向かなそうだ」男はとりあえず丁重に断った。 「そうですか」少女はさして意に介したふうもなく会話を続ける。「ところで、あなたは手持ちがすくないのですね?」 「ああ」  なんとなく相手のペースに乗せられている気になりながら、男は頷く。  それを見て、少女もまた、真顔のまま深く頷いた。 「では、私の下僕になりませんか?」  4. 契約 「――は?」  男の顔から表情が抜け落ちた。 「すみません」少女はすぐに謝った。「言葉を間違えたようです。つねに傍らにいて、人を危険から守る役割の者を、なんというのでしたっけ」 「……………………………………………………………………………………………………………………護衛?」 「はい、それです。護衛。私の護衛になりませんか?」  ――素か? 素なのか? 眉ひとつ動かさず訂正した少女に、男は混乱した。そこへ冷静な口調がたたみかける。 「以前に立ち寄った村で、このあたりは野盗が多いから気をつけるよう、忠告を受けました。これからも野盗に会うかも知れません。しかし、私はこの腕では戦えません。だから、剣の腕に自信のありそうなあなたを、護衛として雇いたいのです。お金なら、それなりに持っていますから」 「……はぁ」  理路整然と並べられる言葉を、男はただ呆然として聞くしかない。 「期限は、安全な場所に着くまで。もしくはこの腕が治るまで。代金は毎日支払います。一日につき、オース銀貨を一枚。相場には詳しくありませんが、妥当でしょうか?」 「…………これから戦場をくぐり抜けるわけじゃなく、」こめかみを押さえながら、男はようやく自分のペースを取り戻した。「あんたがどっかの国の女王様やお姫様というわけでもないなら、相場どおりだ。だが、あんた、目的地は?」 「ありません」  少女はきっぱりと言った。 「ない? その年で、そんな旅をしてるのか?」男は目を丸くする。「そういえば、あんた、一人旅なのか? 親は?」 「親はいません。一人です。行き先はあなたにお任せします」 「護衛の行き先に主がついていくなんて、そんな馬鹿なことがあるか」 「不都合ですか?」 「そういうわけでもないが……」  男の目が、わずかに鋭さを増して少女を見る。  年のわりには小柄で、見てくれはやや幼い。だが、あどけないということもない。纏う雰囲気はすでに大人びている。それなりに飾り立てれば、じゅうぶん役目を果たすだろう。  不都合どころか、都合がいい。むしろ、よすぎる。なんの巡り合わせかそれとも罠かと思うほど、願ったり叶ったりの申し出だ。  腹の底でめまぐるしく動くそんな計算を悟られないよう、男は腕を組んでためらう仕草をしてみせた。 「まさかとは思うが……だれかに追われているとか、賞金首なんてことはないよな?」 「あなたと違って、人の恨みを買いそうなことをした覚えはありません」 「……俺と違って?」  なるほど、どこかすっとぼけているようでも、言うことは言う性格のようだ。 「まあ、わかった。俺はこれからミスト大公国に入る予定だが、あんたがそれでもいいってんなら、護衛を引き受けよう。ただ、あんたに怪我をさせて、さらにお金をもらうってのは気が進まないな。野盗に止めを刺していなかった俺の責任ということで、タダでもかまわないが」 「あなたの責任ではありません。怪我をしたのは、私の勝手です」  毅然として言う少女に、男は肩を竦めた。 「あんたがそれでいいなら、言うとおりにするさ。俺はいまからあんたの護衛で、あんたは俺の雇い主だ。俺の名は、アレス。あんたは?」  ためらうような沈黙が降りた。不審に思った男――アレスが眉をひそめたころ、ようやく、 「ラスク」  少女がぽつりとつぶやいた。それが神への祈りではなく、彼女の名をあらわすものだと理解するのに、アレスは数瞬を要した。 「月女神《ラスク》? ……あんたが?」  驚きとともに浮かびかけた表情を、とっさに押し隠す。 「なるほど、月女神《ラスク》とはね。そりゃまたずいぶんお似合いじゃないか」  語調は皮肉だったが、皮肉ではなかった。心から思っての言葉だ。  〈天の国〉の闇の中に住まうとされる月の女神は、闇色の髪と闇色の目と月の光のように白い肌を持つ、美しい女神だ。目鼻立ちは涼しげで、つねに凛としている。……と断言できるのは、月女神を描いたどの絵もどの像も、判で押したようにそういう顔立ちをしているからだ。そしてほとんどの絵やほとんどの像が、足元に黒猫か黒豹を従え、片手に抜き身の剣や長槍を掲げ、今にも戦場に駆けつけんばかりに髪をなびかせた女神を描いている。  アレスの目の前にいる少女は、そんなだれもが思い浮かべる月女神のイメージに、たしかによく似ていた。  背中まで垂れた長い黒髪に、血の気のない真っ白な肌。感情の揺らぎを微塵も見せない、凛とした闇色の瞳。  少女がいま着ているのは、粗末な生成りのブラウスや、土と血に汚れた茶色いスカートだったが、月女神のように純白の薄絹を纏って立てば、月神殿に飾られた石膏の像にも見えるだろう。……もうすこし成長すれば、という条件付きだが。 「俺のように信仰心が薄い者でも月女神《ラスク》サマの下僕になれるとは、光栄なこった」  今度のアレスの台詞にはしっかり皮肉が混ざっていたが、ラスクは不快そうな様子もなく、ただ頷いた。 「似ている、と言われることは多いです。しかし、私は女神ではありません」 「まあ、神が〈天の国〉からわざわざ地上に降りてきたなんて話は、聞かないからな」  アレスも笑って同意した。そもそも、神など大昔のだれかの空想上の登場人物に過ぎないのだから、実在するわけがないのだ。  月女神の容姿、月女神の名前、月の光を思わせる奇妙な剣。あまりにも符号がそろい過ぎていて、逆に手の込んだ冗談にしか見えない。きっとこの剣を持たせた親が酔狂かよほどの月女神信者なのだ。期待を込めて娘につけた名前がぴったりはまった希有な例だろう。あるいは、本名はべつにあって偽名を名のっているだけかもしれない。だとしたら、そうとうの自惚れ屋だが――どんな理由でも、アレスには関係のないことだ。 「さて、自己紹介もすんだことだし、いったん移動するか。こんなところじゃ、野宿をする気にはなれないからな」  まわりを見渡せば野盗の死体が累々と横たわっていて、安らぐどころの風景ではない。血の匂いも鼻を突く。あとからこの道を通る旅人は、さぞ迷惑することだろう。 「あんただって、さっさと水浴びして血を落としたいだろ? 俺の地図が正しけりゃ、もうすこし行ったところに川がある。歩くのが辛いなら、あんたは馬に」  アレスが言ったまさしくその瞬間だった。  闇の奥で、当の馬が嘶いた。危急を告げる、切羽詰まった嘶きだった。