『双子の夜と魔女の生贄』  天月翔子 ●はじめに ・本文6p〜305pのうち、6p〜33p2行目までの内容です。 ・ふりがなは《》で表示しています。特殊読みのみふってあります。 ・smoopy(http://site-clue.statice.jp/soft_smoopy.php)とか使って読むと幸せになれるかも -------------------------以下本文------------------------- ■ 序章 リト市 「いい日ですね、旅のかた。どちらまで行かれるんです?」  市門をくぐり出た旅装の人物に、商人の一団が親しげに声をかけた。  日乾しレンガの市壁に寄りかかり、夏の陽射しに目を細めながら、三人組の商人たちは人待ち顔でリト市の東門を見張っていたのだ。 「いい旅日和ですね。俺はサルトワ市までです」  歩みを止めた旅人が顔を向けると、商人たちは一様に目をまるくした。行きさきが珍しく一致していたから、というだけではない。頭まですっぽり覆った日除けの外套から、真珠のように真っ白な肌が覗いていたからだ。目深に被った頭巾からわずかにこぼれて見える髪も、このあたりでは珍しい金色だ。 (男には違いないようだが……ずいぶんとおきれいな顔だぜ)  そんな驚きをすばやく押し隠し、日に焼けた肌の商人たちは、黒髪をまとめたターバンを愛想よく揺らした。 「おお、なんという奇遇」「私らと同じ場所に行かれるとは」「しかし、そんなお若い身でご旅行を? かなり遠くからいらしたようですが」 「古い友人に会いに行くんです。皆さんは塩の買いつけですか? あそこの塩は有名ですよね」  市壁の外に広がる赤茶色の大地へ顔を向けながら、旅の青年も気さくに話題を振る。 「おお、異国のかたもご存知とは」「嬉しいですねぇ」「そうですとも、サルトワ塩は極上ですとも!」  三人の商人たちはおおげさな身振りで近づきながら、それとなく青年を囲む。 「北はカカヤから南はネローシュまで、極上の塩をお届けするのが、私ら商人の役目ってもんです」 「お勤めご苦労様です」 「それに、ここの織りレースはあちらじゃ大人気でしてね」「塩とレースで、ちょうどいい商いになりますよ」「おっと旦那、ご友人へのお土産に、手巾などはお持ちですかな?」「よければ私どものほうでご用意しますよ」「どれも選りすぐりの逸品ばかり!」  いそいそと背中の包みを広げてから、中年の商人たちは過ちに気づいた。 (しまった、つい、いつもの癖が!)(引かれてしまったか?)(せっかくの獲物が逃げてしまう……!)  しかし、彼らがうっかり見せた商魂に気づかなかったのか、 「お土産なら大丈夫ですよ。ご心配ありがとうございます」  青年が返した笑顔は、厭味のない爽やかなものだった。 (こいつは天然ボケのお人好しだな)  面食らいつつも、三人組はすぐ気をとりなおした。相手の頭のゆるさに成功を確信したのだ。引きつづき人の好い笑みを張りつけながら、青年をさそう。 「どうでしょう、あなたがよろしければ、私らと一緒に行きませんか」 「サルトワ市まで?」 「ええ、ちょっとばかし長い道のりですからね」「旅は道連れと言いますでしょう、人数が多いほうが、私らも心強いですから」「ご存知ですか? このへんは野獣も多いんですよ。まとまって歩くほうが安全です」 「なるほど、いい考えですね」と、考えた素振りもなく青年はすぐ首を縦に振った。「ここでお会いしたのもなにかの縁でしょう。俺からもぜひお願いします」 「そうと決まりゃ、さっそくご案内しますよ」  商人たちはいよいよ笑みを深くした。 「ここからちょいと脇に行ったとこの川辺に、私らの隊がおりましてね」「一緒に合流しましょう」「なに、すぐ近くです」 「はい。しばらくご厄介になります」  旅人もまた口元の笑みを深くした。そして素直な様子でうなずくと、商人たちに従って歩きだした。 ◆ ◆ ◆  市門の上で置物のようにとまっていたコンドルが飛びたった。乾いた風が彼を高みへと押しあげる。土埃を被った石壁も、平地に張りついた石造りの街も、うねりながらつづくワタ畑の緑も、たちまち彼の眼に小さくなる。  悠然と天を滑翔しながら、コンドルは乾いた大地を俯瞰する。人間たちが汗水垂らして開墾した畑の緑色より、ひび割れた赤茶色のほうがはるかに多い地だ。お世辞にも、生き物たちにとって豊かとは言えない。  それでも、コンドルはこの地を気に入っている。なにしろ見晴らしがいい。ここカーシュ地方の地理なら、彼はすみずみまで知りつくしているほどだ。彼の頼もしい翼なら、南の端から北の端まで飛ぶのに十日もかからない。人間の足では百日以上かかるだろう。  南と東には雪を戴いた峻嶺が脈々とそびえて大地を区切り、北と西には藍色の海原が茫洋と広がってホーテンス大陸を絶っている。この閉鎖的な地形が幸いし、カーシュ地方は未だ帝国の侵攻を受けていない。なだらかに起伏を繰り返す帯状の大地には、小規模な都市や集落が点在し、どこの国にも屈さぬ自由な政を謳歌している。  コンドルは舞うように身をひるがえし、市壁に沿って歩く商人たちを先まわりした。彼らが目指すさきには、リト川がある。はるか上流で山脈の雪解け水をかき集め、リト市民とワタ畑を潤している恵みの川だ。  その北の川縁に、花を散らしたような色とりどりの天幕群が広がっている。野営しているのは五十人ほどの人間たちだ。リト川の岸辺に九張の天幕を立て、かれこれ五十日ほど滞在している。毎日リト市内に出入りしては、商いや芸をして暮らしている。  コンドルはすでに知っていた。一見、大規模な商団に見える彼らが、じつは独自の文化を持つ小規模な一族だということを。カーシュ地方のどこにもその一族を指して呼ぶ言葉は存在しないが、一族は自分たちのことを〈魔女の子ら〉あるいは〈ネクタルの一族〉と呼んでいる。  そして、コンドルの主はこれを略して〈ネク族〉と呼んでいる。  野営地の上空で、コンドルは円を描くように舞った。商人に挟まれて歩く旅人を視野の片隅に収めながら、さらに〈ネク族〉に関する知識を反芻する。  彼らが都市に出入りしながら蓄えるのは、交易品や旅の食糧だけではない。  この日のように、人間を拐かすことがある。  それも、できるだけ若くて頑強そうな男を狙う。多いときで三、四人攫う。そうして捕まえた男たちから一人ずつ選び、〈クグラ〉にする。  〈クグラ〉はネク族独特の言葉で、意味は外から得た生贄≠ニいったところだろう。ネク族は、ある魔女を信仰している。不幸な生贄《クグラ》たちは、彼女の加護を得るために捧げられるのだ。コンドルはまだその魔女の名を知らないが、実在の魔女ということはたしかだ。  屍肉を常食とするコンドルからすれば、生けるもの、それも同種である人間をわざわざ殺して自分たちでは食べもしないネク族の風儀は、奇異なものに思える。壁の中で安穏と暮らす人間たちにとっても、街から人を攫っては殺すようなネク族の行いは、おぞましいものに感じられるはずだ。自領の平和をおびやかす集団を、カーシュ地方の施政者たちが放っておくはずがない。それでもネク族は、これまでひとつの咎めも受けることなく、なにくわぬ顔でカーシュ地方を渡り歩いている。  なぜそのようなことが可能なのか。  雲ひとつない空にゆったりと円を描きながら、コンドルは思考を巡らせる。  もしかするとどこかで魔女の助けが働き、彼らの存在を人の意識にのぼらせないようにしているのかもしれない。だが、多くはネク族自身の慎重な性格に因るのだろう。  ネク族は必ず、一目でそれとわかるような旅人を狙う。それも、出立のときを見はからって拐かす。旅人が街からいなくなっても訝しむ者はいない。旅人とはいずれ次の場所へと旅立っていくものだ。ただ、その旅路が呪われているか否かの違いである。  そして今日もまた、一人の若者が死に向かう旅路へといざなわれたのだ。  商人に連れられてネク族の野営地に足を踏みいれた旅人が、待ちかまえていた男たちにとり囲まれたのが見えた。  コンドルは翼を大きくひるがえした。東の山脈から吹きつける気流に乗って、高く高く舞いあがる。この日の出来事を主に告げるため、一心に北を目指した。 ■ 第一章 流星の夜 1.クグラとクグル 「たいへん、ユイ、ちょっと来て」  生成りの布を前に、さて次はどんな服に仕立てようかと悩んでいたユイの腕を、引っぱる者がいた。見あげると、ユイそっくりの少女がいた。顔ばかりでなく、膝丈の白いワンピースも、頭の上で結んだ白いリボンさえも、鏡のようにまる写しだ。  そこに鏡があるわけではなく、妖精《シー》たちがまやかしを見せているわけでもない。彼女はユイの双子の姉だ。走って天幕に入ってきたのか、明るい樺色の癖毛を肩の上で揺らしながら、姉はいったん息をついた。いつもみずみずしく輝いている大きな翠の瞳が、どうしたことか、いまは翳っている。  ただならぬ様子の姉はそのままなにも告げずに、ユイの手を引いて天幕から連れだした。足を向けたのは野営地の中央、族長の天幕がある方向だ。 「どうしたの、アイ。もしかして、クグル、決まったの?」  尋ねながら、ユイの胸は早鐘を打った。運命の日がとうとう来てしまったのだろうか。  この一族の双子は、十四歳も間近になると、どちらかが選ばれて〈大人〉になる。選ばれなかったほうは〈クグル〉になる。  ユイは、大人になれるのは聡明で快活な姉《アイ》のほうだろうと確信していた。つまり、生贄《クグル》の運命を引き受けるのは自分だ。〈ネクタルの一族〉の者ならば、生涯の終わりには必ずその命を魔女に捧げることになる。いや、還す、と言うべきか。一族に繁栄と加護をもたらす〈魔女様〉のためなのだから、クグルとして命を還すことは、ユイも納得していた。  していたはずだが……。  姉に手を引かれながら、ユイは足が震えだすのを止めることができなかった。 「そう、だから、たしかめてほしいことがあるの。――っと、大丈夫? ユイって、なにもないところで転ぶのが得意よね」 「た、たしかめる、って?」 「だって、ユイ、私より目がいいでしょ」  族長の天幕はあざやかな緑がまぶしくてよく目立つ。深緑のツタ模様が縫いこまれた天幕の前で、大人たちが人垣を作っていた。皆、とくに女性が、興味津々の様子でなにかを注視している。族長もその場に出てきているようだ。凛としてよく通る彼女の声が聞こえてくる。 「ずいぶんと時間がかかって、こんな折れそうな優男が一人? 次のサルトワまで、すくなくとも七日はかかる、と言ったはずだけど。この男が七日も保つとは思えないわ」 「しかし、族長様《ノイ・セーラ》、こいつ以外だれも門から出てこなかったんですよ」 「この時期に? そんなことあるわけないでしょう」 「魔女様に誓って本当です、旅人はこいつだけでした」  険のある口調に圧されながら、男たちが必死に言い訳をしている。  もめているようだが、ユイは鼓動をなだめつつ安堵の息をついた。会話の内容から、外贄《クグラ》がいることは推測できた。つまり、自分はまだ内贄《クグル》には選ばれていないのだ。  もうしばらくは、アイと一緒に過ごせる日々が残っている……。  アイはユイをぐんぐん引っぱって、大人たちの背後にぴたりとくっついた。 「私、記憶力には自信あるけど、あのとき、夜だったし、それに、信じたくない」 「いったいどうしたの?」 「いいから見てみて」  姉に促されるまま、ユイは大人たちの隙間をおそるおそる覗きこんだ。  ちょうど、生贄の儀がはじまったところだった。族長の前で、一人の旅人が膝を折らされ、頭《こうべ》を深く垂れている。両手首はすでに体の前で縛られ、抵抗を封じられていた。ひとつ結びの長い金髪が、無骨な男の手によって持ちあげられ、白い首があらわになっている。 (あれ? あの人……)  白い肌と金の髪の組み合わせに嫌な予感を覚え、ユイは生贄《クグラ》を凝視した。  屈強な男に押さえこまれた旅人の体つきは、ずいぶん細く見えた。一族がいつも求めている頑強そうな若者≠ニはすこし違っている。横からうかがえる顔立ちもやさしげで、悪く言えば頼りなさそうだ。そこまで確認したユイは、嫌な予感を確信に変えて息を呑んだ。 「見えた?」 「あの人……あの人って……」 「やっぱり、あの人なのね。私の思い違いならよかったのに」  瞳を伏せたアイの横で、ユイは新たな身の震えに襲われていた。勢いでそのまま持ってきてしまった生成りの布を、震えを逃がすかのようにぎゅっと胸に抱く。  双子の動揺をよそに儀式はつづく。旅人の頭上で族長が捧げ持っているのは、魔女から一族に与えられた頸環《トルク》だ。C字型をした重たい金の装身具は、本来、北の氏族の戦士が己の誇りと身分を示すためにつけるものだ。しかし、ネク族のトルクは戦士の勲章とはまったく違う意味を持っている。すなわち、魔女への供物を示す目印の首枷だ。  昼を過ぎたばかりのまぶしい陽射しが、二匹のヘビが絡み合う黄金色の環を鮮烈に輝かせている。一度獲物を捕らえたら死ぬまで離さない魔女のヘビたちは、いままさに、哀れな旅人の喉元に巻きつこうとしていた。  アイはその光景に目を背けたが、ユイは布を抱き締めたまま、旅の青年から目を離せずにいた。 「どうして、ハヤさんがこんなところに……」  〈クグラ〉の青年――ハヤと名乗る旅人と双子が出会ったのは、いまより三日さかのぼった夜のことだった。  降るような流星群の夜だった。双子は母を捜すため、リト市で一番高い鐘楼に忍びこもうとしていた。その矢先に、文字どおり降って湧いたのが、彼だった。 2.流星群  双子は夜の街を足早に歩いていた。石畳を叩くかるい靴音が、石造りの街に反響する。あたりはしんと寝静まっているから、かすかな音でもよく通る。足音も息も潜めぎみに、しっかりと寄り添いながら、双子はリト市の大通りを進んだ。  帝国の帝都近辺ならいざ知らず、カーシュ地方の多くの都市には、街灯というものは存在しない。一般的な小都市のリト市にも、やはり街灯はなかった。手燭と満天の星だけが、二人の足元を照らしている。  手燭はアイが持っている。昼のうちに、一族の幌馬車からこっそり持ちだしておいたのだ。上の口が広くなった四角柱の風除けがついていて、木製の持ち手がそれを支えている。風除けは磨かれた青銅でできている。小さな灯火は金属の板に反射し、黄金色の大きな光となるのだ。  二人は東門から伸びる大通りをまっすぐに進み、中央広場に建つ鐘楼を目指した。市内へ頻繁に出入りするアイが下見をし、鐘楼の入口の鍵が壊れていることは確認ずみだ。  子供だけの秘密の冒険は、だれにも咎められず、順調だった。広場まで辿り着くと、双子はほっと息を漏らした。  だがすぐに、いま吐いたばかりの息を呑むことになる。  広場の奥には、レンガを積みあげた細長い鐘楼の影が見える。そのとんがり屋根の真上に、突如、光が出現したのだ。双子ははじめ大きな流れ星だと思ったが、よくよく見ると様子がおかしい。  満月に似た青白い光は、上から押しつぶされたようにぐっと横に延びて、屋根と同じぐらいの大きさの、二重の円になった。円の中で無数の小さな光がくるくる飛び交っている。屋根の上の風見鶏もくるくるまわっている。 「妖精《シー》の踊り?」 「あっ、人が……」  ユイがアイの手を引っぱった。円の中央に、いつの間にか人影が出現していたのだ。  それはたしかに人の形をしていた。背で大きくひるがえっているものは、外套だろうか、下からの風と光を受け、真っ白な翼のようにはためいて見える。その周りでは小さな光が羽根のように舞い、宙に溶けるように消えていく。  謎の人影は円の中心、つまり、とんがり屋根の頂点に着地するかに見えたが、風見鶏がそれを拒んだ。人影は鶏冠を踏んだとたんに体の平衡を崩し、頭を下にして屋根をすべり落ちた。 「あっ」双子は青ざめた。互いの手を握る力が強くなる。  人影はすべり落ちながらあざやかに後転した。屋根の縁を両手でがっしり掴んでぶらさがり、落下を免れる。双子はほっと胸を撫でおろした。  そのとき、鐘楼を照らしていた光の環が、風にあおられたように消えた。広場に元どおりの闇が落ちる。  それでも、双子が謎の人影≠見失うことはなかった。白い外套が星明かりの中でも目立つうえ、うなじのあたりでひとつに結ばれた長い金髪が、闇夜でもかすかに光って見えたからだ。背中まで髪を伸ばすのは、ネク族では女性しかいないので、ユイははじめ人影を女性かと思った。体つきもほっそりして見える。しかし、ずいぶん腕力があるようだから、もしかすると男性かもしれないと思い直した。ここは外なのだから、ネク族の常識は通用しないのだ。 「あっ」  アイが再び声をあげた。人影がふいに屋根から両手を離したのだ。こんどこそ石畳に叩きつけられる――!  しかし、人影はこんども落下を免れた。最上階にぽっかりあいている窓の縁をはっしと掴み、腕一本でぶらさがると、重さを感じさせない動きでひょいと体を持ちあげ、そのまま鐘楼の中に入りこんだ。  双子は顔を見合わせる。 「ねぇ、いまの、なんだと思う?」 「妖精《シー》のまやかし……じゃないと思う」 「ユイはそういうの敏感だものね。ということは、ふつうに、人間?」 「ふつうかどうかはわからないけど……」 「そうだね、とりあえず行ってみようよ」 「えっ」  姉は目を輝かせたが、妹は怯んだ。姿はそっくりでも、性格は正反対の双子だ。  それでもユイは、アイにぐいと手を引っぱられると、逆らうことなく走りだした。  入口の戸板の鍵は壊れたままだったので、鐘楼に入りこむのは簡単だった。アイははじめ螺旋階段を駆けのぼろうとしたが、ふと気づいて、足音をたてないようにのぼりはじめた。ユイもアイに倣う。そうやってそろりそろりと進んでいくと、やがて頭上からだれかの声が聞こえてきた。若い男性のものだろう、覇気があって明るい印象の声だ。ところどころ聞きとりづらかったが、息を詰めて近づくうちに、声は明瞭になってきた。 「…………にゆが…………て……にはきだされ……たぶん……のぱたーん……。ひきよせ……たんだ。……あたりに、なにかあるんだろう。というわけで、なっど、おれはしばらく――っと、ひとだ」そのさきは急に声が小さくなって、すぐになにも聞こえなくなった。  双子はいったん足を止めて顔を見合わせ、それから再びそろそろとのぼりはじめた。最上階への出口はもうそこに見えている。  双子がそろって階段穴から顔を出したとき、声の主とおぼしき人物は、窓から身を乗りだしていた。右手を宙へさしのべている。その手から小さなチョウが一匹、ひらりと飛びたった。  夜目にもはっきりチョウと見てとれたのは、それが虹色の光を放っていたからだ。ふしぎな輝きを帯びたチョウは、虹色の軌跡を描きながら、窓の外の高みへと消えた。  顔をあげてチョウを見送っていた人物が、おもむろに身体ごと振り向いた。  床から顔を覗かせて呆然としていた双子と視線が合う。彼に驚いた様子はなかった。 「やあ、いい夜だね、妖精《シー》みたいなお嬢さんたち」  はっと我に返り、こっそり見ていたことを怒られると思って身をすくめた双子は、やさしげなテノールに拍子抜けした。次いで、その容姿に目を奪われた。  アイが手燭を掲げるまでもなく、相手の足元に置かれたカンテラの光で、顔の造作は見てとれた。ネク族はある理由から美男美女が多いので、顔の美醜に関してなら双子の目は肥えている。そんな双子でも思わず陶然とするほど、端麗な顔立ちの男だった。小さく浮かべた笑みは優美で、華がある。目の色はよく見えないが、こちらを見つめ返すやわらかな瞳の光が、なんとも魅力的だ。  立ち姿もほどよくすらりとして高い。年のころは二十歳ほどだろうか。ついこのあいだまで少年だった、というような若々しさが全身から立ちのぼっている。ただ、口元を飾る微笑には妙に老成した雰囲気があるから、本当はもうすこし年上なのかもしれない。 「君たちは双子? あんまりそっくりで驚いたよ。妖精《シー》に化かされてるのかと思った」  石の窓枠に浅く腰かけ、青年が人懐こく笑う。  それはこっちの台詞だ、とユイは内心思った。 「本当に妖精《シー》かもしれないわよ」  アイは臆せず応じて、階段をのぼりきる。ユイもつづいた。  見習い詩人としてあちこちの都市になんども出入りしているアイは、人見知りをしない。口もよくまわり、子供らしからぬ物言いをして、大人を小気味よくへこませることもある。めったに野営地から出ないユイは、一族以外の人間としゃべるのが怖かったので、謎めいた青年の相手は姉に任せることにした。 「こんな真夜中にこんな場所へ、妖精《シー》のお嬢さんたちは、踊りにでも来たのかい?」 「私たちは母さんを捜しに来たのよ」 「お母様がここに?」  青年はふしぎそうにあたりを見まわした。  鐘楼の中は狭い。中央のやや高い位置に提げられた鐘と、床の隅にぽっかりあいた階段穴と、東西に向かって大きくひらかれたふたつの窓があるだけの、がらんどうの空間だ。人影と呼べるものは、三人のほかに見当たらない。  要領を得ない顔の青年に、アイは彼が腰かけている窓を指さしてみせた。正確には、その外を。 「星よ、星」 「星?」 「流れ星。長い尾の星といえば、恋しい人の星に決まってるじゃない。今日は特別な流星群の夜なのよ」 「ああ、なるほど……」  青年はやっと納得した様子でうなずいた。 「お兄さんこそ、真夜中にどうしてこんなところにいるの? そもそも何者?」 「お兄さんは通りすがりの一般的な旅人です」 「一般的な旅人はこんなところにのぼらないわよ。不審者の間違いじゃなくて?」 「不審……」 「あの光はなあに? どうして空から出てきたの? あんなふしぎなことができるの、魔物か魔女だけでしょう? お兄さんから魔力は感じないけど、本当は魔女? 魔物? それとも、妖精《シー》? さっきのチョウはなあに? あのチョウと話してたの?」  がっくり肩を落としている青年へ、追い打ちをかけるようにアイは質問攻めにした。 「見えたのか」  額に手を当て、青年が小さく息をついた。ためらうような間のあとに答える。 「あれは、移動の……魔術だよ」 「魔術? じゃあ、お兄さんはやっぱりお姉さんで、もしかして魔女――」 「やっぱりってなんだ。お兄さんは身も心も顔も、れっきとした男性です。……そう、魔女に頼んで送ってもらったんだよ、魔術でね」 「送ってもらった? そんなこともできるのね」 「……そうさ。とても長い距離で、歩くことはできなかったからね」 「それって、まさか海の向こうから来たってわけじゃないわよね」  海の向こうにもここと同じような大陸があるらしい、という話を、双子はときどき耳にしていた。獣のような毛むくじゃらの人間がいる、とか、竜のような鱗を持った人間がいる、とか、そんな噂がまことしやかに囁かれている。ふしぎな光と一緒に空へ飛びだしてくる男がいてもおかしくない。ただ、闇に浮かんだ彼の肌は光を放つかのように白く、金色の髪も華やかで、そうした特徴は海の向こうの奇妙な人間≠謔閧熈山の向こうのふつうの人間≠ノそっくりだ。 「帝国訛りがぜんぜんない気がするけど……やっぱり、帝国の人?」 「…………そうだよ」 「すごい! 私、帝国の人と真正面でお話するの、初めて。ねぇ、その灯り、ちょっと見せてもらってもいい? カンテラっていうんでしょ? この透明な筒は、もしかして、ガラス?」 「そうだよ。そうか、このへんではガラスは珍しいのか……」  なにやら気まずそうにつぶやく青年の足元にしゃがみこんで、アイとユイはじっくりとカンテラを眺めまわした。星の光芒を象った青銅製の覆いの下に、光を通す透明な円柱がくっついている。円柱の中では、油を使った炎が揺れていて、独特の匂いを発している。 「だって、帝国の商人が持ってるのしか見たことないんだもの。どうやってこんな水みたいな曲がる板ができるんだろう? 持ちあげてみていい? ……水晶よりもかるいわ。これも帝国の魔術なの? ガラスって魔術でできるの?」  アイの質問に、青年がこらえきれないというように噴きだした。アイが眦をつりあげる。 「いま、田舎者って思ったでしょ!」 「ごめん、ごめん。ただ、夢があっていいなあと――待って、そんなに怒らないでくれよ」  アイの拳を慌てて受け止めた青年は、お詫びにと、ガラスの作りかたについて簡単に説明してくれた。ガラスの原料は魔術ではなく、石英や石灰などのいろいろな砂だ。それらを高温で溶かして生成するので、多くの燃料が必要になる。木のすくないカーシュ地方では、燃料を確保するのが難しい。ガラスの素になる砂も、カーシュ地方より帝国のほうが圧倒的に産出量が多い、などなど。 「――たとえば、帝国の南には広大な石英の砂漠がある。砂がぜんぶ白く輝いていて、見渡す限り真っ白なんだ。とてもまぶしくて、気をつけてないと目を傷めてしまうぐらいだよ。雨期になるとあちこちに大きな沼ができるんだけど、これがまたエメラルドのように深みがある美しい緑色で――」  双子が見たこともない世界のことを、青年は淀みなく語る。双子は感嘆の溜息をついた。 「すごいわ、お兄さん、物知りなのね」  青年は照れくさそうに頭をかいた。 「まあ、あちこちまわってるからね」  たしかに、彼は旅慣れたような格好をしている。飾り気のない半袖のシャツに薄手のやわらかなズボンを合わせた姿は、夏の旅人らしく、こざっぱりとした出で立ちだ。長い足に履いている革のブーツも、長期の旅にうってつけの丈夫そうな型だ。それもだいぶ履き古されている。その足元に丸めて置かれた白い布は、毛布を兼ねた外套だろう。  壁ぎわへ無造作に放られている革袋が、彼の旅荷のようだ。身軽さを好む性分なのか、持ち物はとてもすくなく見える。そういえば腰に帯剣用の革ベルトを巻いているくせに、短剣のひとつもぶらさげていない。  彼が旅人らしくない点を挙げるとすればただひとつ、無防備なところだろう。カーシュ地方に野盗はすくないが、まったくいないというわけではない。丸腰で旅をするなど、よほど自分の強運に自信があるか、なにも考えていない大馬鹿者かのどちらかだ。彼も実際は、革袋の中になにか武器を隠しているのかもしれない。 「だけど、今夜の流星群のことはまったく知らなかったな。お嬢さんたちはよく知ってたね」 「知り合いに、空を読める人がいるのよ」  アイは得意げに小さな胸を反らした。ネク族には、天の運行を読むことに長けた女性がいる。五日さきの天気はもとより、いつ流星群があるか、いつ太陽が喰われるか、といったことをすべて占いで知っているのだ。 「今年は絶好の条件だよ」占術師は双子にそう言った。「いつもより特別に多く流れて、月がふたつとも出てこないんだからね!」  彼女の予言を聞いてから、双子はずっとこの新月の夜を心待ちにしていた。そして、どうせならできるだけ高い場所で母に会いたい、ということになり、今宵リト市の鐘楼へ忍びこむことになったのだ。  そして双子はようやく思い出した。謎の青年との会話にすっかり夢中になっていたが、ここに来たのは、母の星を探すためなのだ。 「たいへん、母さんを見失っちゃう」  アイはユイの手を引っぱって石の窓枠にとりついた。ちゃっかり青年の真横に並ぶ。  見あげた東の空は、滴り落ちんばかりの星々で埋めつくされている。白く輝くというセキエイの砂を、闇色の布にたっぷり乗せてさっとひと撫でしたら、こんなふうにまばゆく散らばるのではないかと、ユイは想像してみた。実際、星の集まりには、だれかがいたずらに撫でつけたかのようなむらがある。たとえば、北東の地平から天頂へ向け、駆けのぼるような光の帯が見える。星女神の腕《かいな》、あるいは光の街道などと呼ばれている、星が密集した帯だ。  月はふたつとも新月で、空は星々の天下だ。片田舎の小さな街は闇の底ですっかり寝静まり、親子の再会をじゃまするような無粋な光は見当たらない。それでも、星がもっとよく見えるようにと、アイが手燭の火を吹き消した。 「俺のカンテラも消そうか?」 「ううん。お兄さんの顔が見えなくなったら、もったいないもの」 「え、顔?」  青年に持ちあげられたカンテラの炎が、ぐらりと揺れる。 「ふふ。ところで、まだぜんぶの質問に答えてもらってないわ。さっきのきれいなチョウはなあに? もしかして、妖精《シー》?」  すこし離れた場所にカンテラを置きに行った青年が、苦笑混じりに頭を振った。 「お嬢さんは手厳しいね。俺は尋問を受ける犯罪者になった気分だよ」 「だって、犯罪者でしょう? 勝手にここに忍びこんでるじゃない」 「それに関しちゃ、お嬢さんたちも同罪じゃないか」 「そういえばそうね」  アイは悪びれずに明るい笑い声をたてた。 「あのチョウは、えーと、妖精《シー》の一種、だよ。……たぶんね」  戻ってきて窓枠に腰かけた青年は、だいぶ歯切れが悪かった。彼自身、よくわかってないのかもしれない。たしかに妖精の一種だろう、と、〈妖精術〉をかじっているユイは心の中でうなずいた。妖精がまじないを使ったような微量な魔力を、チョウから感じたのだ。それに、妖精は美しいものが好きだから、眉目秀麗な彼のまわりに集ってもおかしくない。妖精が多く集えば、それだけふしぎなことも起こりやすい。  もっとも、妖精が人の目に映ることはめったにない。彼らが進んで姿をあらわそうとしない限りは見えないし、魔力がすくないから長く人の目に映っていることもできない。ただ、勘のいい者なら、夜の闇、昼の光のそこかしこに、彼らの小さな気配を感じることができるだろう。  ユイの師匠は、「妖精《シー》どもは薄皮一枚隔てた向こうの世界にいるのさ。あっちからはこっちがまる見えだけど、こっちからあっちを見るのは難しいんだよ」と言っていた。まるで別世界に属した生き物のようだが、カーシュ地方の人々にとっては、妖精はいたずらで気のいい隣人だ。人を惑わしたりからかったりすることもある一方、気まぐれに仕事を手伝ってくれたり、ときには家に居着いて幸福を呼び寄せてくれる。だから、カーシュ地方の人たちは親しみをこめて彼らを「隣人《シー》」と呼ぶ。 「あっ、見て!」  だしぬけにアイが歓声をあげた。その指は空の一点を指している。 「あーでも惜しい、一瞬だったわ。ユイ、見えた?」 「ううん。なかなか会えないね、母さん」 「大丈夫、きっとすぐ会えるさ」  アイに向かって発したユイの言葉を拾い、気安く請け負ったのは青年だった。思いがけない応答にどぎまぎしたユイは、思わず姉の陰に顔を隠してしまった。 「私たちね、母さんのことぜんぜん覚えてないの」  アイは妹をかばうように青年に話しかけた。 「私たちを産んでしばらくしてから、この季節に星になったそうよ。だから、会えるのはこの流星群の時期だけなの。それに、今夜はちょっと特別なのよ。マイアさん以外には内緒で、こっそり出てきちゃった。それはもう、大冒険だったんだから」 「そうか。君たちはずいぶん勇気があるんだね」  すっかりアイの話し相手になっている青年は、ユイに避けられたことなど気にもとめていないようだ。 「だけど、お母さんに会えたらすぐに帰ったほうがいいよ。こんな夜中に、かわいいお嬢さんたちが得体の知れない男と一緒だなんて、お母さんが心配してしまうよ。お父さんだっていまごろ――」 「つまり、お兄さんは危ない人なのね?」  真顔のご高説を遮ってアイがからかうように尋ねると、青年はうろたえた。 「え? そりゃ、まあ、自分で安全と言うのも信用がないし――」 「そうね。こんな真っ暗な夜にかわいい女の子がふらふら出歩いて危ない人に出くわすのと、不審なお兄さんの横でじっと朝を待つのと、どっちが危険か、考えこんでしまうわね。……あっ、また流れた!」 「わかった、わかったよ。小さな淑女に敬意を表して、今夜のお嬢さんたちの安全はお兄さんが保証するから、ふらふらするのはよしなさい」 「話の早い人で嬉しいわ。……すごい、さっきからいくつも流れてる」 「まったく、見かけ以上に頭のまわるお嬢さんだ」 「お兄さんこそ、見かけによらず人を見る目が正しいのね」  アイがにっこり笑いかけると、青年は苦笑でそれを受け止めた。  双子に警戒心がないわけではないが、物腰やわらかで博識なこの青年が、危険なことをしでかす人物とは、アイにもユイにも思えなかった。それに、彼は無防備すぎる。窓枠に浅く腰かけながら上体をひねって星を見ているいまも、双子がちょっとつつくだけで窓の下へ真っ逆さまに落ちてしまいそうだ。 「ところで、お兄さんの名前はなんて言うの? 私たちは、ヨル」 「俺はハヤだよ。君は、夜《ヨル》さん? 変わった名前だね。お嬢さんの一族じゃ、特別な意味を持っていたりするの?」  双子がリト市民ではないということを、彼はすでに知っているようだった。