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大河と霧と英雄の船

第一章 研修船アルゴ号

1. トリトランサー

「パイロットになってドームの外に出たら、きっと星が道標になってくれるよ」
 なーんて夢のある話を語ってくれた父に、嘘つき、と心の中で毒づきながら十五歳のタイガは研修船の操縦桿を握っている。あれから十二年、父の話をひたすら信じてここまでがんばってきたのに、ドームの外に広がる空には星のひとつもありゃしない。
 コックピットのスクリーンに映る景色は陰鬱そのものだ。重く淀んだ闇色の天から〈死の雪〉と呼ばれる白いものが常にちらちら舞い落ちて、ドームよりもはるか下の〈奈落〉へと吸いこまれていく。有害な死の雪に触れれば人間のやわな肌はたやすくかぶれてしまう。かぶれるだけならまだよくて、たくさん浴びると体中が溶けて苦しんだすえに死んでしまうそうだ。
 そもそも大気自体が人体に有毒で、吸いこむだけで死んでしまう。気温もマイナス五十度以下の極寒の世界だから、とても外になんて出られたもんじゃない。
「タイガくん、あとは自動操縦で大丈夫だよ」
 左から飛んできた穏やかな声に、タイガは慌ててスイッチを切り替えた。
 副操縦席でタイガを見守っていたアルフレッド・スターン船長は、垂れた目尻にしわを寄せて微笑し、うなずいた。茶色の優しいまなざしを持つ彼は、船長という肩書きにふさわしく、ゆったりとした体と奥行きの深い人柄を持っている。働き盛りの三十六歳で、“三十にして不惑”や“最弱無敵”“影なしアルフ”“天然ゴースト”という奇妙な二つ名をいくつも持っている名物船長だ。
「タイガくんは船を自分で動かすのが好きなのよ、ね」
 右隣のカリーナ・ルイーズ・チカロフ通信士が、気さくな笑みをタイガに向けてくれた。彼女はいつもにこにこしていて、気配りもこまやかで、やわらかそうでいい香りがするすてきな女性だ。肩の上で丁寧に切りそろえられた金髪が、豊かに波打ちながら頬をふんわり縁取っている。優しそうに細められた青い瞳と目が合うと、タイガの胸は甘いうずきとともに高鳴ってしまう。タイガが二歳のときに亡くなったという母の写真に、どことなく似ているせいだろうか。とはいってもカリーナはタイガの母親という年齢ではなく、まだ二十五歳で、通信士の中ではかなりの若手だ。“マドンナ”“女神さま”というありきたりな二つ名がこっそりついて回っているのは、同僚のほとんどが男性だからだろう。
「タイガくんなら、出発地から着地までぜんぶひとりで手動操縦でもいけるんじゃないかしら」
「カリーナさん、タイガくんをそそのかさないでください、その気になられたら困ります」
 タイガが口を開くよりも先に、後方の座席からロン・グゥ安全監査士が異をとなえた。バックミラーごしに見る細い面には、いつもの苦笑がやんわりと浮かんでいる。彼もカリーナ同様、二十三歳とすこぶる若い。短い黒髪に切れ長の黒い目を持つ生粋のチャン族で、童顔が多い種族の特徴どおり、実年齢よりもさらに若く見える。あだ名は“フューシップの生まれ変わり”だの“歩くシップ事典”だの“フューシップの部品でできたサイボーグ”だの、船に関する彼の知識量を讃えるものばかりだ。たまに“見かけの二倍”と呼ぶ人もいるが、なにが二倍なのかはタイガにはわからない。
「全手動操縦か。ヘンリーに続く三人目の記録になるね。やってみるかい?」
 アルフレッド船長までもが面白そうにタイガをそそのかしてくる。
「君はヘンリーに似てるところがあるからね。確固たる技術力、高い計算力、抜群の集中力。三拍子そろったトリトランサーなんて、なかなかいないよ」
「そんなすごい人といっしょにしないでください……」
 ロン安全監査士の視線を背中に感じながら、タイガはとんでもないとばかりにかぶりを振った。今回の航行時間はおよそ五時間、いくら集中力があるからといって、トリトランサーの免許も持っていないようなひよっこ研修士が「じゃあやってみます」などとかるく言えるような楽な飛行じゃない。
 だけどもし、最初から最後まで自分の手で船を動かし、闇の世界に果敢に立ち向かうことができたなら……そう想像しただけで、タイガの胸はカリーナの笑顔を見たときよりも高鳴った。
 だがその昂揚はすぐに、厳かな声にぴたりと沈められてしまう。
「タイガくん、安定飛行の確認はまだかね? 操縦中の物思いは命取りじゃよ」
「あっ、はい。自律飛行への移行を完了、機体の安定を確認しました」
 タイガは慌てて周囲の計器をたしかめ、宣言した。
 操縦席の真後ろに守護霊のごとく貼り付いているジェイソン・ウェブスター教官には、タイガがどれくらい上の空かなんて簡単に読み取れてしまうらしい。白いふわふわのひげの中にいつも穏やかな笑みをたたえているジェイソン教官は、パイロット養成所の中では親しみやすいと一番人気だ。一方で、なかなかどうして鬼のように厳しい教師でもある。細かいところまで鋭く目を光らせる眼力と、だれにでもつきっきりでみっちり教えこむ粘り強さを兼ねそえているから、生徒たちは気が抜けない。最終的には否が応でも操縦技術が身についてしまうので、よけいに人気教官なのだろう。たとえ厳しくとも、一流のトリトランサーを目指すタイガは師に恵まれたことをありがたく思っている。ちなみに彼を形容する二つ名は“ホワイトマフィア”“触ってみれば祟りなし”などさまざまある。敬意をこめて“老師ラオシー”と呼ぶ卒業生たちも多い。
「技術があるからとおごってはならんぞ。トリトランサーにもっとも必要とされているのは、預かった荷物をつぎの基地にちゃんと届けるための責任感じゃよ」
「はい」
 タイガは師の言葉をしっかりと胸に刻みつけた。
 いま、この研修船アルゴ号の狭い操縦室には、一人の子供と四人の大人が詰まっている。コックピットのまるいスクリーンと向かい合う三つの席に、左からアルフレッド船長、タイガ研修士、カリーナ通信士が座っている。そしてタイガの背後には、椅子にも座らずに健脚を披露している六十八歳のジェイソン教官が控えている。その全員を見渡せる最後方の席に、ロン安全監査士。タイガを除いた全員がトリトランサーの免許を持ち、いざというときは自分が操縦桿を握ろうと待ちかまえている。
 トリトランサーとは、世界連合統治局統合本部(略してHUGOGCフゴーク)の公式定期輸送船のパイロットのことだ。“フューシップ”と呼ばれる大きな紡錘形の船を操り、地球上に点在する三つのドームのあいだを飛び回ってさまざまな物品や人員を運ぶ。いわば世界の動脈だ。この世にたった八機しか存在しないフューシップの操縦桿を握れるのは、狭き門をくぐり抜けたわずかな精鋭のみ。しかも、トリトランサーは〈HUGOGCフゴーク〉直属の正仕官としてあつかわれる。つまり、花形のエリート職だ。それゆえに、トリトランサーは多くの少年少女たちの憧れの的になっている。
 タイガもそうした子供たちのひとりだった。もちろん、憧れているだけではトリトランサーにはなれない。まず、統治局が運営するパイロット養成所に入らなければならない。そして、その中でとくに成績が優秀な者だけに、トリトランサー試験の受験資格が与えられる。人生でたった一度きりしか受けられない、ひじょうに難しい実技試験だ。その試験に合格して初めて、トリトランサーを名のることができるのだ。
 夢を追って九歳で養成所に入学し、三つの筆記試験をそれなりに優秀な成績で突破したタイガには、いよいよ七日後に運命の実技試験が迫っていた。今日研修船アルゴ号に乗っているのは、試験のためにジェイソン教官が特別に組んでくれたカリキュラムのおかげだ。タイガがアルゴ号に乗るのはこれで二度めだ。養成所の生徒たちでもめったに触れることができないほんものの操縦桿をこうして握ることができるタイガの胸はいま、誇りと喜びでいっぱいだった。
 だが実際は大きな失望もタイガの心に入りこみ、暗澹たる影を落としているのだった。
「アルカディアベースの光、もう見えなくなっちゃったわね」
 スクリーンで左舷下の映像を確認し、カリーナが寂しそうにつぶやいた。
 トリトランサーたちが見つめるスクリーンには、冥府のように陰鬱な闇の世界が広がっている。フューシップのヘッドライトが放つ強力な光芒は、進路方向にかろうじて死の雪を見いだすだけだ。はるか上空で生成された死の雪は、さまようような動きで奈落の底へ落ちてゆく。こんどは奈落のどこかで〈死の霧〉となって立ちのぼり、上空でふたたび死の雪となってまた舞い落ちる。なんと憂鬱な無彩色の循環だろう。ドームの外には黒か白しかないのだ。光は放たれるそばから闇に呑みこまれ、レーダーがなければ右も左も他船の存在すらもわからない、果てなき暗黒の世界だ。
 星が道標になるどころかひとつたりともタイガの前に姿をあらわさないのは、地球全体を覆っているどす黒い粒子のせいだ。初めての実習の日、この暗鬱なる景色を目にしたタイガは深くふかく失望した。いくら授業で「ドームの外はただ闇が広がっているだけ」と教えられたって、実際に外に出るまでは、タイガには信じられなかった。プラスチック製の古ぼけた天球儀を回しながら、あるいは投影機が天井に映し出した星空を眺めながら、父はよく“外の世界”の話を聞かせてくれた。そのたびに幼いタイガはトリトランサーの夢へとかき立てられた。それなのに、夜ごと想像していたきらめく外界がじつはとっくに失われた過去の幻影だったなんて、そんな結末はあんまりだ。
 有害な外気と闇を恐れてドームに引きこもった人類の中では、トリトランサーは数少ないドーム外経験者だ。ドームに“外”があるということすら知らない人だっている。生まれてから死ぬまでドームの庇護下で暮らす人たちは、この空虚な風景にどんな思いを抱くのだろう。やはり失望するのだろうか。それとも、どうでもいいんだろうか。
 ふつうの人はめったにドームから出てこないが、やむをえぬ事情でほかのドームへ移動する人たちもいる。いつかそんな乗客のひとりをつかまえてこのスクリーンの景色を見てもらい、感想を聞いてみたい、とタイガが思っていたら、折しもひとりの乗客がドアをこじ開けて操縦室へ入ってくるのをセキュリティカメラの映像ごしに見つけた。
 タイガは混乱した。
 今日は客など乗っけていただろうか? ――― いや、これは研修船だ、荷物はいくらか積んでいても、よぶんな客などひとりも乗せていないはず。ということは、あの青年は招かれざる客、完全なる部外者だ。そんな人間が、このロックのかかった操縦室にわざわざ入ってくる理由はかぎられている。きっと、アルゴ号を乗っ取りに来た悪いやつに違いない。タイガはセキュリティカメラの青年から目を離さずに、操縦席の下に収納されているレーザー銃へ手を伸ばした。
 その動きを制するように、侵入者はひょいと片手を上げた。
 その手に子猫がぶら下がっていた。
「おっす。こいつ船内で迷子になってたぜ。だれだよ仕事先にペット持ちこみしたやつ」
 カリーナとロンとアルフレッドが、なぜか同時に盛大なため息をついた。

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