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雲の群れ

あのクモのように

 いっそクモになってしまいたい、と、車の助手席でリカは思う。カフカの『変身』のように、突然大きな毒虫になってしまいたい。そして隣の男を毒殺してしまいたい。
 べつにクモでなくてもいい。とりあえず自分以外のなにかになりたい。そうすれば、これから男とホテルへ行かなくてすむ。貞淑な妻である必要も、良き母である必要も、あちこちから仕事が舞い込む一流デザイナーである必要もなくなる。
 車は音をたててカーブを曲がった。男の無口なところと、かなり乱暴な運転をするところをリカは好んでいる。だが、本当は嫌いだ。
 すべては成り行きだ。デザイナーになったのも、人と結婚したのも、子供が二人いるのも、この男と昼間っからホテルへ行くのも。夫は妻の不倫をこれっぽっちも疑っていないし、子供たちは元気にすくすく育っているし、仕事はばかみたいに順調だ。男はばかみたいに無口で乱暴だ。
 赤信号に、車がつんのめって止まった。リカは隣の男を見る。リカの視線に気付いた男は、なに、という顔をしてからニヤリと口の端を上げる。リカも微笑み返す。このやりとりもすべては成り行きだ、とリカは自分に言い聞かせる。
 巨大なクモになったリカを、男たちはきっと見捨てるだろう。『変身』の主人公を見捨てた母と妹のように。きっと自分が死んだときには晴れ晴れとピクニックに行くんだろう。そう思って、リカの笑みは深いものになった。
「なんか楽しいこと考えてんの?」
 珍しいリカの笑みに、珍しく男が口を開いた。
「空が青いなぁと思って」
 言ったあとでリカは空を見上げた。さまざまな形で浮かぶ雲の背景に、空っぽの空。異質のものがいっしょくたになった光景など珍しくない。たとえば、リカと男のように。
 はぐらかされた男はそれ以上突っ込んではこなかった。そういう賢さも、リカは好きだけれど嫌いだ。嫌いなのにそばにいるのはどうしてだろう。
 水と自分は同じものだ、と、リカは知っていた。水が空に浮かべば雲と言われる。地に落ちてくれば雨、硬くなれば氷、流れれば川。貞淑な妻、良き母、一流デザイナー、隣の男のもの。呼ばれ方が違うだけで、リカはリカだ。どんなに形を変えても、水は水だ。そして、器で形を変える水のように、風で形を変える雲のように、すべては成り行きだ。自分が笑うのは男が笑ったからで、男が笑ったのは自分が男を見たからで、自分が男を見たのは車が止まったからで……。
 嫌いな男のそばにいるのは、男がそばにいるからだ。
 車は滑るようにホテルの駐車場へ入った。
 だからいっそクモになってしまえたらいいのに、と改めてリカは思う。人間がクモになるとしたら、水が空気になるようなものだ。雲にならなくたって、空に浮かんでいられる。風になって雲を流してしまえる。強い毒で、隣の男を殺すことができる。

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