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雲の群れ

待ち伏せ

 公園の入り口で、僕は彼女に待ち伏せされた。
「絵、かくの?」
 大きくて平べったい僕のバッグを見ながら、彼女はまずそう尋ねてきた。
「ね、ついてっていい? 悟くんが絵をかくとこ、見たい」
 僕は頷かなかったけれど、彼女はそのまま僕にくっついて公園の中に入ってきた。
 僕はいつものベンチに荷物を置いた。大きなスケッチブックを広げ、噴水から水を汲み、絵の具をパレットに広げる。その一部始終を彼女は見ていた。
 僕はスケッチブックに向かう。下書きはできている。あとは色を塗るだけ。今日の作業を終えれば、絵は完成する。
 芝生の黄緑を筆に含ませる。
「コンクール、出すの?」
「出さない」
 彼女の問いに、はじめて僕は答えた。自分でも驚くぐらい、はっきりとした声で。
「どうして? きれいな絵なのに」
「まだ完成してないのに、よくきれいだなんて言えるね」
 ベンチに座っている彼女へ、決して視線を向けないよう注意しながら、色を重ねる。
 この公園の午後の光はとてもいい。公園の地面そのものが淡い光を発しているように見える。
「悟くんは、私のこときれいって言ってくれたよね」
「覚えてない」
 彼女がどんな顔をしていたのかも、思い出せないのに。
「私が完成してるって証明も保証もないでしょ。でもきれいなんでしょ。だから、完成してなくても、きれいなものはきれい。きれいっていう、ただそれだけのことなの」
 彼女らしい屁理屈だ。
「写真、もうやめたの? これからは絵なの?」
 今度は僕は答えなかった。
「コンクール、出さないの?」
 今日も、フリスビーで遊んでる子供たちの声が聞こえる。それを聞いているだけで楽しくなる。でも、声はスケッチブックに残せない。僕が写しとれたのは、片手をあげた子供と宙を舞う円盤だけ。
「あんなに、打ち込んでいたのに」
 芝生の上に気持ちよさげに転がる人たちがいる。こっちにまで眠りが伝染しそうだ。
「私のこと、忘れてたでしょ」
 公園に入った途端、待ってましたとばかりに駆け出す犬を見て、飼い主のお姉さんがとびきりの笑顔を浮かべる。あの笑顔、スケッチブックに写してないのは残念だ。
「どうして、ニューヨークから帰ってきたの」
「関係ないだろ!」
 と、叫びそうになった自分をあわてて抑えつけた。こんなところで突然叫びだしたら変な人だ。
「関係ないだろ、って言いたいんだね」
 それでも彼女には伝わってしまった。
「私、悟くんのこと好きだったよ」
 知っている。
「突然ニューヨークに行っちゃっても、ずっと待ってたよ」
 知っている。友人たちが、彼女の噂をしていたから。
「でも、せっかくもう会えなくなるんだったら、追いかけていけば良かった」
 独り言のように彼女が言った。
「私は結局、あなたが写真を好きなのと同じくらいの気持ちで、あなたのこと好きにはなれなかったんだと思う」
 さっきと言ってることが矛盾している。
「片思いだったんだね、私も、悟くんも」
 それは、僕が写真に愛されていないということ?
 思わず彼女を振り向きそうになった。
 筆が震えて、描きかけの雲が震えた。
「私は、写真好きな悟くんの気持ちに。悟くんは、私のきれいだったかも知れないところに」
「僕は……」
 写真ほどに君を好きだったことはない。そう言ってやろうかと思った。君はただのお飾りさ。ただ横を歩いていればいいだけの存在だったのさ。僕のことを好きだと言うから、ただそばにいさせてやった、それだけのことさ。
「悟くんが写真を嫌いになったら、私の恋は完全に死んでしまう」
「もう死んでるくせに」
「私が死んでも、恋は残っているのよ」
 冗談じゃない。僕はとうとう振り向いてしまった。
 彼女はもういなかった。代わりに、銀と黒のカメラが、鈍い光を帯びてベンチの上に落ちていた。
 僕は筆を置いて、そのカメラを拾い上げた。
 古ぼけた一眼レフだ。彼女が持っていたのだろうか。まさか、こんなに高価なものを?
 でも彼女に聞くことはもうできない。彼女が何を望んでいたのかも、もう、わからない。
 ファインダーに目を当てて、天を仰いだ。
 人工のガラス越しに空が見える。「青い空、白い雲」という言葉そのままの景色だ。ただそれだけの、つまらない景色だ。なぜ、こんなにつまらないものが地球を覆っているんだろう。
 四角く切り取られた空を見上げながら、僕は憤りさえおぼえた。
 つまらない、くだらない、たいしたことのないもの、そればっかりだ、人生なんて。
 雲は形を変えて流れていく。それでも変わらずに広がっている空。
 小さな世界を見つめ続けていると、自分もあの雲になって、形を変えながら広がっていくだけの存在のように思える。
 彼女はどんな思いで死んでいったのだろう。自分に向かって飛び込んでくる車を、どういう思いで見つめていたのだろう。あのときの彼女のどんな感情が、僕を待ち伏せしていたのだろう。
 もうどこにもいないのに、どこにでもいる、そんな人になってしまった。彼女は。
 僕にいろいろな感情を残したまま。
 ファインダーの中で、雲が好き勝手に模様を描く。あれは感情の動きによく似ている。僕が彼女をきれいだと言ったのはいつだろう。思い出せないけれど、でも、そう言ったからには、きれいだったんだ、本当に。本当にきれいで、そう思うからには、好きだったんだよ、きっと。
 かしゃり。
 大きな音がして、カメラがその時を捕らえていた。
 力の抜けた手から、カメラが離れる。
 鈍い音をたてて、カメラはベンチにぶつかり、地に落ちた。
 僕はそれを拾い上げ、ボディの細い窓を確かめた。……フィルムは入っていた。
 壊れたカメラのシャッターボタンが押されることは二度とないだろう。だけど、このフィルムは絶対に焼き上げよう。焼き上がったら、コンクールに出そう。
 そして、彼女の名前をつけよう。
 また落選してもいい。そのときは、審査員が本当にきれいなものをまだ知らないだけだ、と笑っておこう。僕だけが、この空にそれを知っている。

『還元』も『待ち伏せ』も、同じ夢をベースにしています。
若者、公園、噴水のそば、ベンチ。立ち上がって、ファインダーの中から真っ青な空を覗く……そしてカメラが落ち、壊れる。
夢の中でもとくに、そんなシーンが特に印象に残りました。でも、その男性がどんな気持ちでカメラから空を覗き、どんな衝動でカメラを壊してしまったのかわからなかったので、二種類の物語を作ってみました。
余談ですが、夢の中では、カメラの“ファインダー”という響きをとくに愛でていた覚えがあります。写真て撮るもんじゃなくて見つけるものなんですね。

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