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雲の群れ

還元

 公園の入り口で、彼は彼女に待ち伏せされた。
「ついてっていい?」
 彼は彼女に答えぬまま、公園の奥へと入っていく。その無言を許可と受けとったのか、彼女は彼のあとについていった。
 彼は噴水前のベンチに腰を下ろした。彼女も隣に腰を下ろした。彼は彼女を見ようともせず、無表情のままその日の作業を開始した。スケッチブックと鉛筆で、公園の風景を写しはじめる。
「人間は描かないの?」
 彼はその問いにも答えなかった。
「もうコンクール、出さないの?」
 彼は静かに首を振った。スケッチブックをめくり、次の白紙に鉛筆を滑らせる。
「写真、撮る気ない?」
 彼女は問いを重ねた。
「あなたが撮れば、きっときれいなものができると思うんだ」
 彼はまた首を振り、軽く息を吐いてスケッチブックをめくった。描き損じが次々と増えていく。
「ねぇ、お願いだから、少しでもいいから、口を開いてよ。笑ったりしてよ」
 自分をちらりとも見ようとしない彼に、とうとう悲し気な表情を浮かべて、彼女は言った。
「とても心配なんだよ。あなたの心はどこに行っちゃったの? 私が持ってっちゃったの? どうやって返せばいいの?」
 彼女が勢いをつけて立ち上がったとき、固いものが落ちたような小さな音がした。がむしゃらにスケッチをしていたはずの彼が、その音に気付き、首を動かして隣を見た。
 ベンチの上に、古めかしいカメラがぽつんと乗っかっていた。黒のボディを銀色のフレームで縁取った、一眼レフカメラだ。それを見た途端、彼は思い出していた。カメラマンの恋人が肌身離さず持ち歩いていたカメラと、それを嫉妬に似た気持ちで見つめていたことを。
 ベンチにどっしりと座っているカメラは、銀のフレームで夕陽を眩く反射していた。恋人がいつも赤ん坊を磨くようにカメラを磨いていたことも、彼は思い出した。
 スケッチブックを置いて、彼はカメラを手に取った。
 実在を確かめるように、ファインダーに目を当てる。そして真っ直ぐに空へと向けた。
 雲一つない真っ青な空だった。飛行機も、鳥も、なにもない。いま、空はまさしく空っぽだった。
 そらからくう。いっさいの無。渦巻く嫉妬や苦痛、諸々の感情をこの胸から排除して、心を真っ平らに引き延ばしたら、雲のないこの空のようになるかもしれない。ああ、本当にそうであれば楽なのに。そう思ったとき、彼の指はシャッターボタンを押していた。
 大きなシャッター音に驚いた手が、カメラを離した。
 カメラは鋭い音をたててベンチにぶつかり、地に落ちた。彼は慌てて拾いあげたが、フィルムを巻き上げるレバーは折れ、レンズにはひびが入っていた。
 それを確認した時、彼は片手で顔を覆った。嗚咽が漏れた。彼は恋人が死んでからはじめて泣いていた。彼の感情はようやく動き出したのだ。彼の手から零れ落ちた数滴が、公園の地面に染みを作った。

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