双子の夜と魔女の生贄
第一章 流星の夜
4. 夜明けの光
「お休みのところ悪いけれど、お嬢さんたち、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか?」
明るいテノールが頭上で響いて、ユイははっと目を覚ました。歌ったり談笑したりするうちに、いつの間にか眠りこんでいたようだ。もたれていた窓枠から慌てて身を起こす。手をつないだままのアイもすぐに気づいて飛び起きた。と、双子の体にかかっていたなにかがふわりと舞い落ちた。
ハヤが手を伸ばしてそれを拾いあげ、すばやくまるめてぽんと床に置いた。どうやら、双子が風邪を引かないようにと外套をかけておいてくれたらしい。夏とはいえ、さすがに未明の空気はひやりとしている。ハヤの心遣いはありがたいものだった。
東の窓から見える濃紺の空は、まだ星々を残しながらも、うっすらと紫色に染まりはじめている。陽はまだ山向こうにあった。東の果てを囲う山脈の影が、背後の曙光で黒々と浮かびあがっている。その輪郭は黄金に輝き、まるで山そのものが光を発しているかのようだ。
乾燥したカーシュ地方の景観を、ユイはつねづね退屈に思っている。でも、あの山の向こうになら、きっと神々しい楽園があるのだろう。たとえば、一面真っ白に輝くセキエイの砂漠や、エメラルド色の水辺が……。
(魔女様もいつもは山の向こうにいるって聞いたな……)
「残酷だな。夜明けは、いつも」
ユイの視線を追ってか、ハヤが溜息のようにつぶやいた。
夜明けを残酷と言う意味がよくわからなかったので、ユイは黙っていた。アイも首を傾げただけで、なにも言わない。
まだ鳥も起きだしていない。機織りの音も聞こえない。見おろす街は耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
鐘は鳴っていないし、市壁の向こうは火事になっていないし、街も騒ぎになっていない。やはりあの恐ろしい出来事は夢だったのだ。ユイはそっと胸を撫でおろした。
最近は似たような悪夢ばかり見ている。
今日の夢には、すこしばかり幸福なこともあったような気がしたけれど……。
「あーあ、徹夜するつもりだったのになー。いつの間に寝ちゃったんだろ」
ユイとつないだ手は離さずに、アイがネコのように身を伸ばした。ユイもつられて体を伸ばす。それだけで、悪夢の余韻がすこし飛んだ。
「あと半刻もすれば、夜明けの鐘撞きがのぼってくる。それまでにここを出たほうがいいよ。そろそろ市門もひらくころだ」
そう言ってハヤがアイに渡した手燭は、すでに灯っていた。彼が点け直してくれたらしい。
相手の気配りに感嘆しつつ礼を述べたアイは、ふとあることに気づいた。
「もしかして、ハヤさん、寝てないの?」
「え? あ、そういえば……」
はっと動きを止めてから気まずそうに笑ったハヤは、訊かれるまで眠るという行為を忘れていたかのようだ。
「ごめんなさい、私たちのせいで……」
アイは素直に謝った。ハヤは首を振った。
「気にしないでくれ。この街にはもうすこしいる予定だから、今日はここでゆっくり休むさ」
「ここで?」
「そう。ここで鐘撞き当番のフリをするのもおもしろそうだ」
こんどはしれっとした顔で答えるハヤだった。
「ここから、お嬢さんたちが無事に帰れるまで見送ってるよ。危ない人や怖い魔物に会わないようにね」
「そんな送りかたじゃ、淑女は満足しないのよ」アイは未練の残る目で長身の旅人を見あげた。「……でも、ありがとう。楽しい夜だったわ」
「俺も久々に楽しい夜だったよ。すてきな歌をありがとう。縁があったらまた会おう」
双子が階段穴の暗がりに呑みこまれるまで、ハヤは手を振ってくれた。
石の螺旋階段を慎重にくだりながら、ユイは一夜の出会いにしみじみと浸った。
「ハヤさん、謎な人だけど、すごくいい人だったね」
「うん、すごくかっこよかったね。星よりもいいもの見ちゃったって感じ。あっ、ごめんなさい、母さん」
ぺろっと舌を出したアイの目はすこし潤んでいて、夢の名残に漂うかのようだった。ユイの胸も、まだ夢見がちに高鳴ったままだった。つないだ互いの手は、いつもよりさらに熱を帯びて感じられた。
◆ ◆ ◆
薄明の中を鐘の音に送られながら天幕に戻ったときには、族長が怖い顔をして二人を待っていて、その後の出来事は思い出したくもないが、ふしぎな旅人との出会いは、双子の中で早くも美しい思い出として、結晶化しつつあった。
だが、いまは追想の輝きに見とれている場合ではない。
族長の骨張った指が、
生贄の儀は完了した。
これから数日、いや、もっと短いかもしれないが、すくなくとも一日以上の時間をかけて、彼の体と意識は魔女のトルクに喰われていくことになる。そして、その体が使い物にならなくなったとき、彼のすべては、〈ネクタルの一族〉を支配する魔女へと捧げられるのだ。
男たちに促されて立ちあがったハヤの手首には、痛々しく荒縄が食いこんでいる。両足首も短い縄でつながれ、逃げにくいように歩幅を制限されている。外套は荷物と一緒に奪われてしまったのだろう。半袖のシャツから伸びた白い腕が、真夏の厳しい日にじりじりと焼かれている。
(ひどいことを……)
このときユイはまだ自覚していなかったが、胸が締めつけられるような想いを生贄に対して抱くのは初めてだった。いままでのクグラは、男たちがときどき狩ってくるシカのように、ユイの意識の外で殺されていくばかりだった。
排他的な面はあるが、ネク族は決して一族以外の者に冷酷というわけではない。一人の人間として尊重もするし、親しみもする。商売や芸の客ならなおさらだ。だが、旅人が〈クグラ〉として捕まったとたん、ネク族の態度は豹変する。情けはかけらも持たない。クグラとは、一族のために死ぬだけの存在なのだ。
(ハヤさん、死んじゃうんだ……)
生成りの布を強く抱き締めたまま、ユイは下唇を噛んでうつむいた。
「ユイ、どうする?」
「……決まってるよね」
「やっぱり、私たち、同じこと考えてるね」
緑の瞳を交わし合い、双子はうなずいた。哀れな旅人を前に、彼女たちの心はひとつだった。たとえその選択が、クグル候補であるユイの命を縮めるものだったとしても。
ハヤが逃げれば、その穴を埋めるためにだれかを生贄にしなくてはならない。そしてそれは、いま一族の中で最も不要な者、ユイであるはずだ。
(どうせ、クグルの運命からは逃れられないもの……)
自分の生の残り時間と引き替えに、美しい旅人を救う――― その空想はすこし、ユイの胸を熱くした。
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